「海のはじまり」#10#11、「怒り」は「甘え」かもしれない

さて、ラス前11話である。
もうSNS上の感想が怖い。「誰々のせい」「誰々が悪い」ばっかり。
生方さんが言いたいのは犯人探しなんかじゃないはずだし、このドラマに本物の悪人は今のところいない。
一旦、落ち着こう。

タイトルにした「怒り」は「甘え」かもしれない説。
人は、怒りや悲しみやいらだちをぶつける相手を選んでいる。ぶつけやすい相手にぶつける。
それが人の弱さで、甘えだと思う。
幼い子どもが駄々をこねるのも、親が聞いてくれるとわかっていてやっている。必ず誰かが見ているときに駄々をこねるものだ。

夏は優しい。誰の言葉も一心に受け止めてかかえようとする。
一方で、水季はとにかく意思が強くて、周りも「こういう子だから」と認めて、諦めていく。
水季が生きてるうちに言えなかったこと、そして今は亡くなってしまったことの寂しさとやりきれなさが夏への言葉の矢になって降り注ぐ。

夏は「自分さえ頑張れば」「自分さえ我慢すれば」と逃げ場がなくなっていって、その先には海ちゃんからの拒絶に近い意思表示を突きつけられる。

夏が優しいからこうなった。
この責められようは、夏が悪かったからではない。優しいから、まっすぐ聞いてくれるから、ついぶつけてしまうだけ。
それはやっぱり甘えではないのかなぁ。

水季は、海には「自分で選ばせる」教育方針だったらしいけど、夏には選択させてくれないのかな。
「親になる決心をした夏くん」への手紙は書いたけれど、「子どもがいると知ったけど、どうしてよいかわからない夏くん」への手紙も書いてくれたら良かったのにな。
これも水季の甘えなのか。

同時期に、家族のかたちにこだわらずに支え合おうとする「西園寺さんは家事をしない」というドラマも見ていたので、「海のはじまり」にも偽家族制度が実装されたらいいのにと思ってしまう。

海という子どもひとりに対して、父親、祖父母4人、叔父、「外野」の大人たち(津野と弥生)。たった一人の母が亡くなっても8人もの大人が取り囲む。
子育ての負担を誰か一人が背負うのではなく、たくさんの大人で分け合いながらゆるやかに繋がっていくドラマだと思ってたのだけど…。

最終回の予告もなんだか不穏なんだけど、最後の最後まで頑張って見届けたい。

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