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パウロの思想である「信仰義認論」について

 このところなんとなく続いている「学問シリーズ」、今回は神学です。信仰義認論です。パウロの思想です。私は神学についてはしろうとです。でも、しろうとなりに「英語」(語学)の記事、生物学(進化論)の話など書いて参りましたので、私が神学の記事を書いてもいいだろうと思い、書くことにいたしますね。いつも私が書く宗教ものより少し理屈っぽいと思いますよ。(なお、キリスト教の話と仏教の話がごちゃまぜで出て来ますが、これは私のなかで同じ話なので、ちゃんぽんに出て来るだけです。書き上げてみて思いますが、いい意味でも悪い意味でもあまり理屈っぽくはならなかったかも。よろしければお読みくださいね。)

 信仰義認論は新約聖書のパウロの思想です。聖書全体は旧約聖書と新約聖書から成り立っています。旧約聖書と新約聖書のページ比は3:1くらいで旧約聖書のほうがずっと多いです。旧約聖書はイエス以前の話であり、イエスは出ません。新約聖書はまず4つの福音書というイエス・キリストの生涯が書かれたものがあり、そのあと使徒言行録という、使徒の働きを書いたものがあり、そのあと、手紙が21通続き、最後に黙示録があって終わりです。その21通の手紙のうち13通がパウロの手紙です。ページ数にして新約聖書の4分の1くらいをパウロの手紙がしめていると思います。そのパウロの中心的な思想が「信仰義認論」です。「人は行いによってではなく信仰によって義とされる」というものです。ローマの信徒への手紙の3章にはっきり現れるほか、パウロの手紙のあちこちに出ます。

 「人は行いによってではなく信仰によって義とされる」。「信仰」によって「義」と「認」められるから「信仰義認論」と言うわけですが、じつはパウロの強調したい点は「信仰による」というところではなく「行いによらない」というところにあります。そのローマ3章のさっきの少し前の部分でパウロは「正しい人はいない、ひとりもいない」と強調しています。正しい人はひとりもいないのです。つまり、人は自分の力(自分の行い、自分の努力)で立派に救われていくわけではないのでありまして、ただ神の愛と恵みで救われるわけです。パウロが「行いによるのではない」というのは、せまい意味では旧約聖書の律法をきちんと守って救われるわけではないという意味ですが、これは広く「立派な行いによってわれわれは救われるわけではない」という意味にとってよいと思います。なぜなら、正しい人はひとりもいないからです。ご自分を振り返ってみていかがですか。もちろん私も含めてですが(パウロ本人も含めて)、自分が正しい人間だとは言えないのではないでしょうか。ひとによって程度の差があると思いますが、みんな罪びとの要素があります。ひとはみな罪びとなのです。だからこそ神に救ってもらえるのです。罪びと「なのに」救ってもらえるのではなく、罪びと「だからこそ」救ってもらえるのです。この逆転の発想みたいなものが、パウロの言いたい「信仰義認論」というものです。

 私がはじめてこの思想に触れたのは、中学か高校のときに読んだ、「親鸞」の伝記においてです。まだキリスト教と出会う前です。のちにキリスト教と出会い、そこで言われていることは、親鸞の伝記に書いてあったことと、根本的には同じであることを認識しました。親鸞の伝記は、だれが著者であるか、どんな本であったか、いまとなってはまったくわからなくなって久しいですが、はっきり親鸞の思想を伝えてくれているすぐれた伝記でした。それはパウロの「信仰義認論」とほぼ同じものです。親鸞方面(浄土真宗)では「悪人正機説」とか言います。「他力本願」という言葉もあります。「他力本願」という言葉は有名ですね。「あの人、無責任だな」という意味で使われることが多いところまで含めておもしろい言葉です。「悪人正機説」という言葉は、弟子の唯円が書いた『歎異抄』のなかの親鸞の言葉「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉に由来すると思われます。親鸞は「悪人でさえ救われるのだからまして善人が救われるのは当然ではないか」とは言わず「善人でさえ救われるのだからまして悪人が救われるのは当然ではないか」と言ったわけです。パウロと同じようなことを言っています。「他力本願」の話は少し先送りしまして、まず、親鸞の伝記にどのようなことが書いてあったか、かんたんにご説明しますね。ほとんど記憶に頼っております。

 親鸞は家柄もよく(源頼朝の甥?いま検索で調べただけです。信用なさらないように)、比叡山で修行をしたサラブレッドお坊さんです。非常に賢い人です。しかし、法然とともに(朝廷に邪教と思われた?このへんも記憶があいまいですし検索したくらいではわかりません。だいじょうぶです。私の書くことの大筋に影響はありません)、島流しにあいます。島流しと言っても「島」に流されたのではなく、いまの関東地方あたりに流されたのです(当時は京都がみやこであり、関東地方あたりはとてつもない田舎でした。また、いま検索したら実際に流されたのは今の新潟県あたりだと書いている人の記事がヒットしました。あいまいな記憶ですみません。とにかく私の話の大筋に影響はしないものですから私の記事はあまり細部を信用なさらないで、大筋でお読みいただきたいのです)。その関東地方で親鸞が見たものは、重い年貢(税)に苦しむ貧乏な民の姿です。その人たちはあまりに貧乏で、冬は食べるものがなく、いのししを狩って捕って食べていました。比叡山では清らかなお坊さんがいっさい肉を食べることなく修行していました。この人たちは、貧乏なあまりいのしし(肉)を食べて生きているから罪が深くて、地獄に落ちるの?仏様ってそんなに無慈悲なの?と親鸞は思ったそうです。この世で貧乏暮らしをして、苦しい思いをして、肉を食べたから死んだら地獄に落ちる。これは無慈悲な話です。仏様がそんなに無慈悲であるはずはないです。親鸞は「南無阿弥陀仏(なんまんだぶ、なんまいだ)」と唱えるだけで極楽に往生すると教えてまわりました。パウロの言う「行いによるのではない」と同じです。宗教の本質は「むしのよさ」です。「あつかましさ」とも言います。「信仰義認論」の本質は「立派な行いによるのではない」「なんまんだぶと唱えるだけで救われる」という「むしのよさ」です。

 さっき後回しにした「他力本願」の話をいたしますね。「他」の「力」による「本当の願い」です。本当の願いは救われること。助かること。「他の力」とは、自分の力ではないこと。具体的には仏様の力です。われわれは、自分の力ではなく、仏様の無限の慈悲の心で救われて行くのです。仏様と言っても阿弥陀様のことか、何の仏様のことか仏教に詳しいわけではない私には正確に書けませんがいいのです。だいたいにおいて親鸞上人は「そんなに難しいことを知っていなくてもよい。ただ『なんまんだぶ』と言っていれば助かる」とだけ言って回った人なのですから、別に細かいことに詳しくない私が信仰義認論の話を書いてもゆるされると思っています。とにかく「他の力」つまり仏様の無限の愛によってわれわれは救われるのです。自分の力ではないのです。自分の力では救われないくらい、われわれはみんなダメ人間ですから。神様、仏様の無限の愛と恵みで救われるという道にかけるしかないでしょう。

 以上が「他力本願」という言葉の意味ですが、これが「あいつ他力本願で無責任だな」という意味で使われるというおもしろい現象について書きましょう。そもそも「信仰義認論」とか「悪人正機説」とか「他力本願」とかいう言葉はものすごい逆転の発想ですから、しばしばうまく伝わらないというか、すぐに「悪いことをすればするほど救われるのか。お前、開き直っているんじゃないの?」というツッコミが入るのです。ここまでお読みになった皆さんも、そのように心の中でツッコミながらお読みになっておられたかもしれません。そういうしろものなのです。いまからとても重要なことを書きます。「他力本願」の正反対の言葉が「自己責任」だと思います。「自己責任」という言葉をよく聞くと思いますが、その正反対の発想が「他力本願」だと言っていいと思います。天国に行くのまで自己責任だったら、自分で天国行きの切符をにぎりしめて、自分の力で天国に行ったらいいのです。それじゃあ、神様も仏様もいらないではないですか!自分の力ではとうてい天国など行けない罪深くて弱い私たちのために、神様がその大いなる恵みで、私たちを天国に連れて行ってくれるのではないですか。

 というわけで、神様、仏様に助けてもらわないと生きていけないというのが信仰というものの本質であり、自分の力で救われるのではなく神様の無限の愛で救われるという「むしのよさ」が宗教の本質です。「お祈り」とは神様にあつかましくすることです。「神様、どうか助けてください」「神様、どうかこうしてください」「神様、ああしないでください」「神様、なんでオレはこんな目にあうのですか」とまあ、われわれの祈りは「あつかましさ」に満ちています。しかしこれが「お祈り」の本質です。土居健郎(どい・たけお)も書いています。「お祈りは神さまにあまえること」。祈りは神への甘えです。奥田知志(おくだ・ともし)牧師も言っています。「神様くそったれ。なにしてくれてんねん」と祈れと。神にぐちを言うことは神への祈りなのです。

 イエスは律法の専門家から「どの掟が最も重要ですか」と聞かれ「心を尽くして神を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じくらい大切である。隣人を自分のように愛しなさい」と言ったわけです。普通「どれが最も重要ですか」と聞かれた人は、1つだけ答えるものですが、イエスはあえて2つ答えています。「神を愛せ」と「人を愛せ」。つまり、「神」と同じくらい「人」が大切なのです。すなわち、神に助けてもらうのと同じくらい人にも助けてもらいなさい。神にお願いするのと同じくらい人にもお願いしなさい。神に不平不満を言うのと同じくらい人にも不平不満を言いましょう。というわけです。「他力本願」という言葉は「神様、仏様に助けてもらう」のと同じくらい、「人様にも助けてもらう」という意味でもあります。

 私たちは「助けてもらわないと生きていけない」存在です。まったく人に迷惑をかけず、ぐちも言わずにひとりでやっていける人はおそらくいないだろうと思います。人は理不尽な目にあうと、誰かに不平不満を言って少しすっきりします。ひとによって程度の差がありますが、多かれ少なかれひとは理不尽な目にあっています。ですから、大いに不平不満を言うひとと、ちょっとだけ不平不満を言う人といますが、まったく不平不満を言わない人はいないだろうと思うのです。そして、不平不満は聞いてくれる人が必要になります。神様には際限なく不平不満が言えるところがいいところですが、「神様は見えない、いるのかどうかもわからない」というところが難点です。だから「神」と同じくらい「人」が大切であるのでありまして、ぐちを聞いてくれる人がいります。(人にぐちを言うのは限度がありますけどね!不平不満ばかり言っていたら嫌われちゃう!(笑)でも、まったく人に不平不満を言わないですむ人なんているのですか?)

 ここで、さっきも名前を出した奥田知志牧師の言葉で「問題解決型」と「伴走型」(ばんそうがた)という話をしますね。イエス・キリストは「奇跡的な」人で、水をぶどう酒に変え、目の見えない人を見えるようにし、足の立たない人を立ちあがらせ、五個のパンで五千人を満腹させ、死人までよみがえらせています。これらは「問題解決型」です。しかし、おそらく世の中で一番人気がある有名な讃美歌である讃美歌312番は以下のように歌います。「いつくしみ深き友なるイエスは、罪とが憂いを取り去りたもう。心の嘆きを包まず述べて、などかはおろさぬ、負える重荷を」。この歌には「奇跡的な」イエスの姿は出て来ません。ただ「イエスさまは友達ですよ」「イエスさまはともにいてくださいますよ」「それこそぐちも聞いてくれますよ」と言っている歌であって、この讃美歌が一番人気なのです。これが「伴走型」です。「ともに走ってくれているイエス」です。奥田牧師が強調するのは、「問題解決型も大事だけど、肝心なのは伴走型」という話です。これをこの讃美歌の例で説明するのは私の独自案ですけど、要するに皆さん、「問題解決してくれるイエス」以上に「ともにいてくれるイエス」が好きなのです。この讃美歌の絶大な人気はそのことを物語っていると思います。また、これも奥田さんの本に出て来る例ですが、Kさんというホームレス状態にあったかたが書かれた文章が出て来ます(ここまで私は、親鸞の伝記の記憶を補うときにちょっとネット検索をしたのを除いて、いっさいなにも参照せずに記憶で書いています。聖書や讃美歌さえも見ないで書いています。ぜんぶ自分の言葉になっています。この本も見ないで書いてしまえ!「学問シリーズ」と言いながら、ぜんぜん学術的でない。笑)。Kさんがホームレスだったとき、もっともつらかったことはなにかと言いますと、それは食べるものがないことも、寝るところ、住むところがないこともつらかったけれど、最もつらかったことは「話す相手がいなかったこと」だと書いておられるのです!いかにともにいてくれる人が大事か、という話です。

 そして、最近、また私が思いついて、得意になって書きまくっている話を書きます。何回目かでごめんなさいね。ドラえもんの話です。ドラえもんというのも「奇跡的な」人で、まあつぎつぎに驚くべき奇跡的な道具をポケットから出します。話のパターンとしては、まず、のび太は、学校では先生に叱られ、ジャイアンにはいじめられます。そして、家に帰るとドラえもんに不平不満を言います。(やはり理不尽な目にあった人は不平不満を言います。)そして、ドラえもんがポケットから「奇跡的な」道具を出します。しかし、実はのび太にとってドラえもんのほんとうのありがたみは、奇跡的な道具を出してもらえること以上に「ドラえもんはのび太のぐちを聞いてくれる」、「家に帰ればドラえもんがいる」ということではないのか。のび太はドラえもんにぐちを聞いてもらえることで、メンタル面でどれだけ助かっているか。仮にドラえもんが単なるネコ型ロボットに過ぎず、タケコプターのひとつも出さず、ただあぐらをかいてどら焼きを食べているだけの人物だったらどうなるか。少なくとも漫画として成立しなくなることは確かですが、しかし、のび太にとってドラえもんというのは、まず、「ぐちを聞いてくれる相手」であるというのが大きい気がします。これは奥田さんの話が小学生にでも通じる可能性のあるたとえだと思って、最近の私が得意になって振り回しています。このように「問題解決型」よりもじつは「伴走型」が本質的なのではないか、という話は、その目で世の中を見てみると、いろいろ見つかると思います。

 じつはこの「信仰義認論」というものは、かなり難しいもの、と認識している人が多いと感じられます。ひらたく言うとすぐ上に書いた「のび太にとってのドラえもん」の話であって通じる人には小学生相手でも通じると思うのですが、なにしろものすごい逆転の発想なので、理論武装するのが難しいのです。「信仰義認論」「悪人正機説」「他力本願」「伴走型」…。共通するのは「人間は(神や人に)助けてもらわないと生きていけない」という点ですが、とにかく開き直っているように聞こえるので理論武装が難しいです。さっきのドラえもんの話にしても「なにを言っているのか。ドラえもんは奇跡的な道具を出すことに意味があるのだ。『問題解決型より伴走型』って、問題解決を放棄するつもりか!」とツッコミが入りかねません。私は学生時代、親鸞自身の書いた『教行信証』にトライしてみたことがあります。あまりの難しさにすぐ挫折しました。親鸞はインテリです。人々にはとてつもなくやさしいことを言って回ったお坊さんです。「難しいことはわからなくていいから、ただ『なんまんだぶ』だけ言っていれば極楽浄土に往生できるのだ」と言っていたのです(やはりむしがいい話ですな。これぞ本物の宗教です!)。しかし、親鸞自身の書き残したものは、極端に難しいのです。やはり、これだけの「逆説」を理屈で説明しようとしたら、とてつもない難しさになるのだろうと肌で実感しました。カール・バルトの『ローマ書講解』もとてつもなく難しいらしいです。さきほどのパウロの「ローマの信徒への手紙」を解説した本らしいのですが、これが難しい理由はおそらく『教行信証』の難しさと同じで、その逆説を理屈で説明しようとしたら極めて難しくなるということだと思います。「ローマの信徒への手紙」の解説本は、ルターも書いており、内村鑑三も書いています。いずれも私が読んだことのない理由は単純で「(この記事になにも見ないで書いている通り、)私はパウロや親鸞の言いたいことはちゃんと理解している」ということ、そして「それらの書物は極めて難しい」ということ、そして「それらの書物がなぜ難しいかの理由も知っている」からです。まったくトライしていないわけではありませんぞ。『教行信証』にはちょっとトライしましたからね。

 この「直観的には明らかだがきちんと理屈で説明すると極めて難しい」例として、この記事の最後に「ベッチ数と輪廻転生」という記事をはります。数学の「ホモロジー」という概念も、少なくとも1ベッチ数は明らかのように思われる話を書きました。「信仰義認論」というのも、そんな概念のひとつかもしれません。このようなものですから、私のこの小文でうまく伝わったかははなはだ自信がありません。だいたいこういう発想はパウロが元祖でもなく、他力本願的な発想をする人は、旧約聖書の時代からいました。どの時代にも、どの地方にも、どの団体にも、「自己責任」的な人と「他力本願」的な人はいます。旧約聖書(イエス以前。つまりパウロ以前)から例を出しますと、詩編103編を書いた人は、かなり他力本願的な発想の人です(この詩編、むちゃくちゃにむしがよい)。エズラ記やネヘミヤ記のほうがもっと正統主義的ですね。いや、パウロを正統主義でないと言っているわけではないですが、ほんらい正統主義になり得ないような極論を言っているパウロの思想を「正統」にしようとしている段階ですでにちょっと無理があるかな、という話です。これ、だから、いっしょうけんめい自分の力でがんばるしかないと思う人にはなかなか通じなくて、いやいやとても自分の力でがんばるだけではもう無理で、誰かに助けてもらわないと生きていけないと思っている人にはスッと通じる話なのかもしれません。私が尊敬するのは、その、私が中学か高校のときに読んだ「親鸞」の伝記の作者です。どうやってそんなに平易な言葉で、親鸞の思想をきちんと伝える伝記が書けたのだろう!あの伝記の作者には感謝しかないです。本日は以上です。人は神様なり仏様なり人様に助けてもらわないと生きていけないと思いますよ!

※サムネはサイゼリヤのミラノ風ドリアです。学生時代、教会の帰りによく食べました!



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