近くはない方の訃報を聞いて思うこと。
つい最近、現在中学2年の長女が習っていた日本舞踊のK先生の、さらに上の大先生が亡くなったという連絡を受けた。
その連絡は、娘の後輩にあたる子のママから聞いたのだけれど、彼女は大先生の訃報をK先生ではなく、新聞を見て知ったらしい。
娘の後輩であるその子も、この3月でお稽古を辞めていた。だから直接の師匠であるK先生とは連絡を取っていなかった。
孫弟子である娘たちにとって、今回亡くなった先生は雲の上の方。娘が習っている踊りの流派を拓いた方でもある。
普段はその大先生の直接の弟子であるK先生にお稽古をつけていただいた娘たちだが、発表会前後には大先生とも顔を合わせる。
娘は発表会前にお稽古をつけていただいたり、舞台での指導をしていただいたりした。
その大先生の訃報に触れ、「少し距離のある方の死」について私自身の中にさまざまな感情が生まれた。
普段から会っていなくても、さびしい
親である私も滅多にお会いすることのなかった大先生だったけれど、発表会では何度かお会いしていたし、長女にくっついて私はご挨拶をする機会もあった。
ただ、おそらく大先生にとっては私も娘も記憶の片隅にも残らないくらいの存在だろう。
私にとっては「少し距離のある方」である。
でも、全然関係ない人ではないということを今回の知らせを受けて感じた。
もうお会いできない、さびしいという気持ち。
会わないことが普通である大先生ではあるけれど、この世にいらっしゃらないというのがどこか耐えられない。
中学校に入って踊りからは遠ざかっていた長女も、大先生の訃報には「まさか」「もう会えないなんて」という思いだったようだ。
何かしたい、でも自己満足だろうか
ママ友は、直接の師匠であるK先生に連絡をして「さびしい」という思いを伝えたとのこと。
孫弟子の保護者である私たちで何かできるだろうかという話にもなったが、お葬式はすでに済んでいたし、感染症拡大の心配もある今、やたらと集まるわけにもいかない。
直接の弟子であるK先生は大先生とのお付き合いも長いだろうし、私たちが持った感情以上に心を揺さぶられているだろう。
大先生の訃報は私たちにとっても悲しいものだとK先生に伝えて、K先生と一緒に大先生の今まで築いてきた「生きた証」を一緒に振り返りたい。それがK先生にも慰めになるのではないかと私も思った。
ただ、その一方でこれは私の自己満足かもしれないという気もした。
何もしないことへの罪悪感?何かやれば気が済む?
結局は自分自身だけのために動くことになるのだろうか。
そんな気持ちにもなったけれど、同じような立場にある方はどんなふうに感じるのだろうか。
やはり気持ちを伝えることにした
それでも、何もできないなりに何かするとしたら、「距離のある方」と私をつなぐ、間にいる「故人に近い人」に故人への私の思いを伝えるのが一番なのだろう。
知らせをくれたママ友もそんな思いでK先生に連絡したのではないか、と気づいた。
何も伝えないままでは、何も伝わらない。
何か伝えれば、亡くなった方の近くにいた人が、亡くなった方との思い出を幸せなものだったと振り返る手助けになるはず。
ということで、K先生にただ「寂しい」という思いを伝えるメールを送った。
お返事はないけれど、それでもK先生は私の気持ちを受け取ってくださっているだろう。
自分自身の生き方についても考えた
自分が死んだらどうだろうか、ということも考えさせられた。
おそらく、人生最後に思いを寄せるのは身近な人のことだろう。だから、長い人生のうちの何日かかかわった人のことはきっと思い出すことはない。
そして、逆の立場の人についても考えてみる。
距離のある人でも私の訃報を聞いて「さみしい」と感じる人がいるだろうか?
そのように思ってくれるような人はいなくてもいいとは思う。
でも、いなくなって「さみしい」と思われるような生き方はしたい。
大先生のように。
追記
K先生から、昼送ったメールの返信を夜になっていただきました。
大先生とのお別れ、覚悟はしていたものの、やはりさびしいとのこと。
気丈に前を向いていらっしゃる印象でしたが、その一方で娘にも温かいお言葉をいただきました。
思いを伝えることって大事ですね。
本日もお読みくださりありがとうございました。
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