歴史小説家ひと月パリ滞在記 その1 東京からパリへ
フランスの自動車会社でデザイナーをしている長女が、第二子を出産するというので、今年の夏の終わりに約1ヶ月、パリに行ってまいりました。
私は狭い空間が苦手で、人間ドックのМRI検査も大嫌い。幼い頃、悪いことをやらかすと、父親に押し入れに閉じ込められたものだけれど、もしや、そのトラウマか。
よって長距離フライトのエコノミー席もダメで、5年前の第一子誕生の際には、ロシアの航空会社、アエロフロートのビジネスクラスに乗って行きました。当時はJALのエコノミーより、ちょい高めくらいのお値段。でも近年の国際関係の悪化によって、ここのところ飛んでおりませぬ。
しからば、何がなんでも安いビジネスをと探したところ、エールフランスと大韓航空のコードシェア便が最安値でありました。当日は、なんと深夜2時に羽田空港を出発し、ソウル仁川空港に早朝4時に到着。朝10時にパリ行きのエールフランスが出るまで、約6時間待ち。仁川空港はショップが充実しているのだけれど、ほとんどが開店前。ラウンジに入っても、まだ食事は用意されておらず、ひとり辛ラーメンのカップ麺をすすりました。そこまでしてでもエコノミーは乗りたくない私。バカじゃないかと思います。
でもエールフランスのビジネスは、さすがでした。いきなりシャンパン出てくるし。スパークリングワインじゃなくて、本物のシャンパン!! おかわりし放題。フレンチのゴハンも美味しかった。何を食べたか憶えてないけど。座席の写真は撮ってきました。これがために最安値といえども、かなり痛い出費をしたのだからね。
思い返せば5年前、第一子の初孫誕生のときには、わけがわからず、予定日よりも、かなり早く渡航したのですが、結局、出産まで、ひと月も待つことになりました。
当時、私は「ひとり白虎(集英社文庫刊)」を執筆中で、出産を待つ間に取材をしてまいりました。楢崎頼三という登場人物が、明治の初めにパリで病死しており、モンパルナスの墓地にお墓があるので、お参りしました。
もう一作「大和維新(新潮社刊)」も書く準備に入っており、登場人物の冨本憲吉が、かつてロンドンに留学していたので、その下宿先も見に行ってきました。列車でドーバー海峡の地下をくぐっていったのですが、出発前、パリ北駅で私は右往左往。少しは英語は読めるつもりだったのに、フランス語の表示があふれる中、「ロンドン行きこっち」の文字がアルファベットの中に埋もれてしまって見つからず、どこが乗場なのか、もうさっぱり。出発時間に間に合うか、焦りまくりでしたが、なんとか、ひとりで行って帰ってこられました。
そんな5年前とは異なり、今回は私の到着後、わずか3日で出産。その3日間で、娘夫婦と第一子の5歳の孫娘と私の4人で、パリでそこそこ有名というレストランでランチができました。
今回は小説の取材はなし。あえて行くとすれば、明治初頭の横須賀製鉄所建設に、ちょっと関わる軍港のシェルブールくらい。私は幕末の海軍を小説の得意分野にしているので、どこでも海軍関係は外せません。九州では佐世保の海上自衛隊の博物館なんかも行ったし。でも今回の日程では、是が非でもシェルブールにという気力は、さすがにありませんでした。
そのため第二子出産から退院までは、娘の家で第一子5歳孫と一緒に、テレビで日本のアニメを見る毎日。フランス語吹き替えの英語字幕つきで、ちょっと古めの「ベイブレード」なんかやってました。
私自身、結婚後の数年間はアメリカで暮らしており、娘たちを産んだのも現地の病院。だから西洋の出産入院は短期間だと承知していましたが、やはり数日で、わが娘と新生児も退院してきました。以来、蒙古斑のお尻を拭く日々がスタート。
生まれたのは男の子。私は娘2人しか育てたことがなく、第一子5歳孫も女の子なので、男の子のしるしを、まじまじと見るのは初めてでした。亭主のだって、こんなに見たことないな。世の中の男どもは、ほぼ全員、赤ん坊のときに、バアサンにまじまじと見られていますぞ。
「パリに行く」というと、みんな「ステキ!」とか反応するけれど、まあ現実は、こんなもんです。
次回「ひと月パリ滞在記 その2パリ路線バスの旅」に続く。
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