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『英国王のスピーチ』 メンタルクリニックの映画館


『英国王のスピーチ』

(トム・フーパ―監督、2010年)

吃音症コンプレックスに悩む主人公の、固く閉ざされた心を、型破りなスピーチ矯正士が解きほぐしてゆくプロセスの面白さ。
シェイクスピアの面白さへ扉を開いてくれる映画でもあります。


【前口上】

 今日の映画は実話に基づいたドラマです。イギリスの前女王エリザベス2世のお父さん、ジョージ6世王の物語なんですが、実はジョージ6世王は、幼い頃から吃音症コンプレックスに悩まされていた。どもりですね。

 時あたかも第二次世界大戦が勃発するという時代で、国王はラジオ放送を通じて、国民の心を一つにするために国民に語りかけるという使命を負わされています。そのために彼は吃音症を克服しなければならないんですが、その時、王を支えたのは、ひとりの型破りなスピーチ矯正士=セラピストとの身分を越えた友情だったという物語です。


【上映後】

 『英国王のスピーチ』をご覧いただきました。

 第二次世界大戦中、ロンドンはナチス・ドイツの激しい爆撃を受けます。百科事典を引くと、ジョージ6世王という人は、そのような空襲下のロンドンに王みずからとどまって市民と苦難をともにしたそうです。責任感の強い質実重厚なその人柄は、国民に広く敬愛された―とあります。

 その人が、実は幼い頃から吃音症(どもり)で苦しんでいた。
 
 どもりは、幼少期にでてきても、多くは思春期をむかえる頃までに自然に治ってしまうものだそうですが、なかにはこの映画の主人公のように習慣化してしまうひとがいる。治療法は、現在でも確立したものはない、と30年前に発行された百科事典には出ておりました。

 ただ、映画にも描かれていたように、心理的な要素が原因として大きいので、現在では薬を出して治療するということも行われています。

 実は今日の映画を「面白いから観て御覧なさい」と薦めて下さったのは、私が以前お世話なっていたT先生という精神科のお医者様でして、「原因も治療法もよく分かっていない時代に薬を使わずに治してしまうプロセスが、大変面白かった」と仰っていました。

 コンプレックスで閉ざされた心を開放し、緊張から発話できない状態を、心身を制御してほぐしてゆく。なめらかに発話できるように身体で覚えさせるわけですね。そういう興味も、この映画にはあります。


ヨーク公アルバートのトラウマ

 映画の冒頭ショットは、マス・メディア時代の開幕を象徴するように、BBC放送局のラジオ放送用マイクのクロース・アップです。

 一般の公衆を対象にしたラジオ放送は、1920年アメリカで始まりました。イギリスでは、1922年に放送開始。冒頭のシーンは、その3年後、1925年、大英帝国博覧会の閉会式。ちなみにこの年は、日本でもラジオ放送が始まった年です。

 字幕に「イギリス国王は、世界人口の1/4を統治していた」云々とあります。イギリスがまだ “大英帝国”と呼ばれていた時代です。「博覧会は58の植民地と自治領が参加し、世界最大となりました」と実況アナウンサーが紹介しています。

 その世界の1/4を占める大英帝国中へ向けたスピーチで、自分がどもりであることを御披露目してしまったんだから、主人公ヨーク公アルバートのトラウマは、さぞ大きかったことでしょう。

 少し後の場面。もう1930年代に入ってからですが、父国王のジョージ5世が国民に向けてクリスマスのメッセージをラジオで放送している。一国の元首が、ラジオを通じて国民に語りかけようとするのは、アメリカのルーズヴェルト大統領の影響かも知れません。フランクリン・ルーズヴェルト大統領は、ラジオを使って国民に直接語りかけ、自らのニュー・ディール政策を説得しようとしたんですね。国民が暖炉の傍で直接大統領の談話を聴けるように意図したことから<炉辺談話 fireside-chat>と呼ばれて親しまれ、政治的にも大変効果があったと評価されています。

 1930年代は、ラジオ放送や映画といった視聴覚メディアが発達して、政治的に大きな力を発揮するようになった時代です。
 イギリス国王の場合、立憲君主制の国ですから、アメリカ大統領のように政策を語る必要はなかったでしょうけれども、マイクの前で国民に向かって語ることは、もはや避けられない公務の一部となっている。

 クリスマス放送を終えた国王は、息子のヨーク公アルバートに、

「(喋らないと)国民との絆が切れてしまうぞ。昔の王は軍服姿で馬にまたがっていれば良かった。今は国民の機嫌を取らねばならん。
王室一家は最も卑しい存在になったのだ。我々は“役者”だ。」

と自嘲気味に言い聞かせます。

 主役のヨーク公アルバートですが、吃音症のコンプレックスに悩みながらも、家庭生活では幼いエリザベスとマーガレットの良きパパであり、妻や娘たちと話すときは、ほとんどどもっていませんね。

 娘たちに「魔法をかけられて、ペンギンにされたパパが、南極に置き去りにされて―」と即興のお話をきかせる場面。「家に帰りついたパパペンギンは、ママのキスで何に変身したと思う?」「王子さまね」「いや、アホウドリだ」と答えます。「ペンギンよりもぐんと翼が大きくなって、大きな翼で王女たちを抱きしめました」。この人の機智を感じさせると同時に、自分が抱えているコンプレックスが “アホウドリ”と言わせているのかな、とも思わせる。“アホウドリ short-tailed albatross”は、地上ではヨチヨチ歩きしかできない不器用な鳥の代名詞で、船乗りたちの慰み物にされるような鳥です。

 子供と妻の前で、こんな自己批評をしてみせるあたり、この人は、公的な場では王族としての威厳に包まれていなければならないと思い込んでいても、素顔は誠実で賢い人ですね。但し、すごいカンシャク持ちですけれど。そのことは少し後で…。


オーストラリア人のシェイクスピア・マニア

 準主役のスピーチ矯正士、ライオネル・ローグの家庭も並行して描かれます。父親の運転手を務められるほどに成長した長男と、本に熱中して“ドクター”と呼ばれている次男と、やはり利発そうな三男。息子たちは、そろそろ精神的に自立する年頃です。妻だけが、夫のムダ話に耳をかたむける。暮らし向きは、中の下といったところですが、ヨーク公同様、愛情に包まれた家庭ですね。

 このライオネル・ローグという人物が、オーストラリア出身でシェイクスピア・マニアであるということが、このドラマに彩りを添えています。

 ライオネルが、アマチュア劇団のオーディションを受けますね。演じてみせるのは、シェイクスピアの『リチャード三世』の冒頭のせりふなんですが、「良い発声だ。だが王座を渇望する異形の王の叫びがきこえてこない。おまけにリチャード3世がオーストラリア訛りとは」と言われて落とされちゃう。

 よくオーストラリア英語は訛りがきつい、と聞きますけれど、これは英会話に相当慣れた方でないとちょっと判らないんじゃないでしょうか。語学がダメな私には聞き分けられません。但し、このドラマで問題になるのは、 “植民地を持つ本国人は、植民地人を下に見る”という差別の問題ですね。

 脱線になりますけど、1970年代に日本でもテレビ放送されていたBBC制作の『空飛ぶモンティパイソン』というちょっと過激なコント・バラエティー番組がありました。今でも一部に熱狂的なファンがいますが、その中に「オーストラリア・ネタ」とも言うべきコントがありました。まぁギャグの中身は、かなりおバカなものです。要するにオーストラリア人というと、言葉は悪いですが、 “未開人と一緒に暮らしている、野蛮で、わけのわからんやつら”というイメージですね。逆から見れば、そんな偏見を抱いているイギリス人の島国根性が滑稽だ、ということにもなるんですが、そういう植民地人と本国人との関係が、ライオネルの立場に微妙に影を落とします。

 シェイクスピアについて言えば、これは、このドラマの香りづけ、料理の薬味になっています。大体、物語の初っ端に『リチャード三世』を出すというのが、ちょっとシャレています。『リチャード三世』は、中世の薔薇戦争を背景にした悲劇ですが、王位を狙う主人公が、血みどろの陰謀を重ねて、兄王の地位を簒奪して王になる、というドラマなんです。現実には、ヨーク公アルバートは、兄王から平和的に譲位されて王になりますけれど。

 ライオネルが演じてみせるリチャード3世は、傍らを通れば犬でさえ吠えつく醜い男という設定なので、そのように演じているんですが、芝居はお世辞にも上手いとはいえない。

 しかし、ライオネルは悪役が好きなんですね。

 ドラマの中盤に、彼が下のふたりの息子を相手に、シェイクスピアの何かを演じてみせて、役名を当てさせるゲームをするシーンがあります。ライオネルが怪物のような気味の悪い声を出して、ドアを薄く開け、横向きに顔をニュッと突き出す。「あんた、怖いのか?…怖がるな」。まん中の息子がすぐに「キャリバン」と役の名を当てちゃうんですが、キャリバンは、『テンペスト』に登場する滑稽な悪役。魔女の息子で、野蛮で奇形の奴隷です。

 悪役に魅せられる、演じてみたいと思うのは、芝居好きや役者の業みたいなものです。『バットマン』だって、悪役ジョーカーが光っていないと面白くないでしょう?


To be, or not to be, …

 “To be, or not to be, that is the question. …”という『ハムレット』の名せりふも、ドラマの展開の上で、実に効果的に使われていますね。

 「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ。このままじっと非常な運命を耐え忍ぶべきか。それとも敢然と苦難に立ち向かい、終止符を打つべきか―」。

 ヨーク公がライオネルを訪ねた最初の日、ライオネルは、ヘッドフォンでヨーク公の耳をふさぎ、かなりの音量で心身をリラックスさせる音楽を聴かせながら、この一節を朗読させる。曲は、モーツァルトの『フィガロの結婚』序曲。

 耳から入ってくる自分の肉声を遮へいして喋らせる。<聴覚のマスキング>といって、ライオネルが実際にこれをヨーク公に試したかどうかはわかりませんが、近年試みられている治療法だそうです。

 その時はカンシャクを起こして帰ってしまったけれども、数日後、父王からスピーチ原稿を読むことを強要されて、ふさいでいる時、吹き込まれた自分の声のレコードのことを思い出す。「あの野郎、俺を騙しやがって」という思いでレコードをかけてみたら、…『ハムレット』のせりふが立派に朗読できていた!

 あの矯正士の治療に賭けてみよう、と思う。まさに「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」ですね。ヨーク公アルバートは、ハムレットと同様に、自分の力で運命を切り拓こうとしはじめます。

 ライオネルを再び訪ね、治療を依頼します。但し、個人的な問題の話はしないという条件付き。その日から毎日、トレーニングが始まります。

 舌を鍛える訓練、「瘍摘術中の治医には、術内容の秘義務がある」。腹筋と横隔膜を鍛える訓練。窓を全開にして大声を出すなどなど…。心身の緊張をほぐして、楽に発声・発語するための訓練が、背景音楽のモーツァルト『クラリネット協奏曲』に乗ってユーモラスに描かれます。

 その間に、労働者を前にしたセレモニーでのスピーチ場面が挿入されますが、吃音は、そう簡単に治るものではない。


自分を認めてもらえなかったコンプレックス

 時は一年以上経過し、父王ジョージ5世が死去します。ただちに兄ディビッドがエドワード8世として即位。ラジオ放送が国王の死を告げ、ロンドンの下町にも弔意の教会の鐘の音が響く晩、ヨーク公がひとりでライオネルの診療室を訪ねてきます。

 ライオネルは、これまでヨーク公を“殿下”と呼ばず、 “サー”とも呼ばず、対等な関係を築こうとして、あえて“バーティ” (アルバートの愛称)と呼んできました。ヨーク公はそれを拒み、「個人的な問題は聞かないように」とクギを差してきた。が、父王の死に直面して、初めて、自分の生い立ちをライオネルに話す気になった。何か強い飲み物がほしいと言い、父王の思い出や兄との関係を語り始めます。
 思うように言葉が出ない。ライオネルは、「歌いながら喋るといい」。ヨーク公は、最初拒みますが、やがてぽつりぽつり語られるその生い立ちは、かなり厳しいもので、吃音症の原因を想像させるものです。

 まず、父親に対するコンプレックス。「後から知らされたのだが…、父の最期のことばは、『バーティは他の兄弟たちよりはるかに根性がある』。…だが私には言わなかった。…父はよくこう言った、『私は父親を恐れた。だからお前たちも私を恐れるがいい』」。

 父親から、面と向かって、自分の人格をまるごと認めてもらった経験がないんですね。父親は常に畏怖の対象だった。

 次に、生まれつき左利きだったのを、厳しく罰せられ、右利きに矯正されたこと。(現在、因果関係は証明されていないが、吃音症の人に多いと言われる。)X脚を、補正具を昼夜装着させられ矯正されたこと。「激痛だった」と。

 さらに…、誰でも辛い記憶を人にうちあけようとする時は、言葉が出にくいものですが、彼が唯一メロディに乗せて語った記憶は、かなり深刻なものです。「家族でいちばん親しいのは?」「乳母たち」。「だが、最初の乳母は兄をエコ贔屓して私を嫌い、密かにイジメられ、満足に食事を与えられない状態が3年続いた」、と言うんです。0歳から3歳まで。こういう生育環境で育った人が、「父親から認めてもらえなかった」という強いコンプレックスを抱くのは、当然と思えます。

 ヨーク公は、「君は…ライオネル、私が初めて話す平民だ」と言います。「けれども、お互いの人生をほとんど知らない」。「友達の意義は?」と問われると、ちょっと間があって、「分らない」と答えます。


あんた怖いのか?…怖がるな

 ヨーク公は、兄の即位で、「自分は王にならずに済んだ。ホッとした」と言うのですが、やがて父王が懸念していたとおりの問題が起こります。

 兄王エドワードは、シンプソン夫人という、ちょっと得体の知れない女性との恋に夢中になっています。亡くなった父王は、そのことを知って「私が死ねば、一年以内にあいつも国も滅ぶ」と、ヨーク公に語っていました。

 スコットランドの城で開いたパーティで、シンプソン夫人は王と正式な結婚もしていないのに主人顔で振舞っています。宮廷費の濫費が始まっている。見かねた弟が兄に意見します。「今の時代、王室は不安定な存在だ。…職員80人を解雇し、彼女に真珠を買うのか?ロシア皇帝やドイツ皇帝はどうなった?」。

 ロシアもドイツも、第一次世界大戦の結果、革命が起こって帝政は滅びました。が、兄王は意に介しません。「ヨーロッパにも社会主義の波が…」と言う弟に、「そんなものは、ヒトラーに任せておけ」。ファシズムが社会主義者を敵とし弾圧している限りは、あえて敵対しようとしない。’30年代の “宥和政策” は、こういう態度から生まれるんですが…。

続く弟と兄のやりとり。

「兄さんが平民なら‥何を根拠に…王位に就く?」
「憲法を学んだな?なるほど王になる勉強か。演説の練習もしているという噂だ。国民に語りたいか、バ、バ、バ、バーティ?」
(弟はどもってしまって、言い返せない。)
「弟が兄を王座から蹴落とそうと?‥ま、ま、まるで中世のようだな。」

 怒り心頭と言う状態で、ヨーク公アルバートは、ライオネルの診療室を訪ねます。「相手が私だとどもらない。なぜ兄が相手だとどもる?なぜ相手が兄だと話せなくなる?」とライオネル。怒りで相手を罵倒する言葉、卑猥な言葉はどもらないで、よどみなく出てくるとことに気付かせるところが、ちょっと興味深い。 “shit!” (クソッ) “shithead!” (クソッタレ) “fuck!” (ファック)とか…。先の「歌いながら喋る」もそうですが、ライオネルの治療は、発語の際、過度に緊張した心の状態を解放し、自分で制御することを覚えさせるんですね。

 深刻な事態を察したライオネルは、ヨーク公の悩みを聞くために公園の散歩に連れ出します。ライオネルは、人間として出来るだけ対等な立場に立とうとして、ヨーク公を戸外に誘ったのですが、不機嫌なヨーク公は決して肩を並べて歩こうとしません。まるで、平民は王位継承者と肩を並べて歩くなど許されない、と言っているかのようですね。

 しかし、兄王のスキャンダルを聞かされたライオネルは、「あなたが王座につけばいい。」と言います。ヨーク公は、怒りを爆発させる。

「不敬なことを言うな‼反逆罪だぞ。」
「あなたは、いい王になれる。恐れに負けてはいかん。」
「聞きたくない。」
「何を恐れる?」
「君の言葉だ!」
「なぜ私のもとへ来た?喋りを治すためだろ?」
「私に向って指図するな!私を誰の息子と思ってる?…王だぞ、私の兄も王だ‼…君はたかがビール醸造人の息子、…未開の地から来た、横柄な田舎者。くだらん人間だ!診療は終了する!」

 ケンカ別れしてしまいます。

 ヨーク公は、亡くなった父王も、本心では自分が兄に替わって王位に就くことを望んでいたと知っています。けれども自分は父親の期待に応えられない、吃音症の自分は、王としての威厳も資格もないと思っている。ライオネルは、彼のコンプレックスの最も触れてほしくないところに触れてしまったんですね。それで、怒りを爆発させた。

 ライオネルは、「自分が出過ぎたマネをした」ことに気付き、謝りに行くのですが、ヨーク公は、会ってくれない。

 一方、兄王エドワード8世のシンプソン夫人との結婚問題は当時の国際情勢ともからんで内閣との対立を惹き起こし、広く国民に知られるところとなります。

 ところで、ヨーク公アルバートは、しばしばカンシャクを爆発させます。カッとなりやすい、キレやすいというのは、彼の場合、 “自分を大きく見せたい”という願望とコンプレックスのギャップがそうさせているように思います。

 欠点や弱点を抱えていない人なんていないし、人間は誰でも何かしらのコンプレックスを抱いているものです。しかし特に男性は、しばしば等身大以上に自分を大きく見せたがるようです。体面にこだわって、コンプレックスを隠そうとするからでしょうか。

 これって、社会がまだまだ男性優位のゆがみを抱えているということじゃないでしょうか?ひとりひとりの人間が、本来持っているはずの自由な発展の可能性を、社会制度が阻害して価値観の鋳型に押し込めている。吃音症の人は男性に多いそうですけれども、そういう事とも関係があるような気がします。

 ヨーク公アルバートの場合は、立場上、普通の人以上に“自分を大きく見せなければならない”ことを、強迫観念になるほど教育されてきたわけでしょう?

 だから、彼が本当に怖がっているのは、死んだ父王の影ではなくて、ライオネルのせりふにもあったように、自分自身の影法師なんですね。そう考えてくると、ライオネルが子供たちに演じてみせた『テンペスト』に登場するキャリバンのせりふ「あんた怖いのか?…怖がるな」で始まるあの一節は、このドラマの主人公に向けられたせりふのように響いてきます。

 

私には…王たる声がある

 やがて、国王ジョージ6世となった彼が、夫婦そろって、お忍びで、ライオネルの診療室ではなく自宅に、謝罪のためにやってきます。

 応接間でお互いの謝罪のことばの後…

「私は、クリスマス放送もできない。最悪だよ…。」
「父上はもういない。」
「1シリング銀貨に顔が…」
「では持ち歩くな。ポケットから出すんだ。兄上のことも。
 5歳のころの怖れなど忘れていい。…
 君はもう自分の道をあるいているよ、バーティ。」

 この映画で、平凡だけれども一番心に沁みるせりふですね。


 けれども、国王とライオネルの葛藤には、もうひと波乱あります。

 戴冠式を翌日にひかえたウェストミンスター大寺院。夕闇が迫る時刻の二人きりの予行演習。ライオネルが到着すると、王の態度が変わっている。王の身辺警護をする人たちが、ライオネルのスピーチ矯正士としての資格を調べたんですね。ライオネルは、実は医者ではなかった。

「君は、研修経験も‥証書もない…資格もない…ただ度胸だけ」
「中世の異端審問か?」
「君は信頼を求めた。それに‥対等な立場も。」
「バーティ、博覧会場で閉会のスピーチを聞いた。息子が『あの人を助けて』と言った。」
「役者のなりそこないが?」

 ライオネルは、自分が医者(ドクター)ではないこと、芝居の経験と、戦争(第1次世界大戦ですね)で、前線から戻る兵士のなかに戦争神経症で喋れない人たちがいて、その人たちを治して経験と知識を積んだことを説明します。

 ライオネルは、おどけて両手を拡げ、玉座の前にひざまずきます。

「私を“塔”に監禁しろ。」(ザ・タワー“the Tower”と言っていますが、これはロンドン塔のことです。漱石の最初期の短篇に『倫敦塔』という作品がありますね。)
「そうしたい。」
「罪状は?」
「詐欺だ。…戦争が迫る中、国民に“言葉なき王”を押しつけた。
 私の家族の幸せを壊した上、(王は玉座から立ち上がる)治る見込みのない“スター患者” を罠に陥れた。…狂気の王になる。‥どもりのジョージ‥人びとを失望させる王…」
(王が振り返るとライオネルが玉座に座ってこちらを見ている)
「立て!玉座だぞ!!」
「ただの椅子だ。」
「ただの椅子ではない!それは聖エドワードの椅子‥戴冠用の椅子だ!」
「これまで、どんなケツが座ったか分からん。」…
「私の言うことを聞け!聞け!!」
「なぜ?」
「私は王だからだ!」
「王はイヤなんだろ。なぜ聞く必要がある?」
「私には…王たる“声”がある!!」

” Because…I have a Voice!!” 自分が夢中で発してしまったことばが、無意識のうちに自分を勇気づけている。せりふが良く書けていて面白いんで、つい長めに書き抜いてしまいましたけれども、このドラマは、ここがクライマックスで、後は一気呵成に進みます。


 ロイヤル・ファミリーが戴冠式のニュース映像を観るシーンで、ヒトラーの演説を撮ったニュース映像が映し出されて、王が「演説がうまいな」というシーンがあります。

 映写されたのは、1936年、ニュルンベルクのナチ党大会を報じた映像です。ヒトラーの怒号のような演説は、聴衆の理性よりも情緒に訴え、人びとの欲求不満を不満のままに組織しようとするものでした。脱線になりますが、チャップリンは、こういう映像を通じてヒトラーの大衆操作術の恐ろしさを肌身に感じ、あえて『独裁者』を製作して、みずからヒトラーのパロディを演じたわけですね。


 1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドを侵略します。その2日後の9月3日、イギリス、フランスがドイツに宣戦布告します。

 国王最初の“War time speech” (戦争スピーチ)をライオネルの助力で成し遂げるシーンは、もう解説の必要はないと思います。

 ひとつだけ、背景音楽について言えば、国民とともに苦難をともにしたいと願う、王の心情を表現するかのような、あの荘重な曲は、ベートーヴェンの交響曲第7番、第2楽章アレグレットを、そのままではなくて演説に合わせてアレンジしたものです。(頭のイ短調の和音がちょっと“どもって”出てきます。)


 ライオネルのセラピストとしての型破りな仕事は、患者に自信をもたせ、「友が聞いている」と力づけることだった。その経験と知識とを第1次世界大戦で積んだというのは、現代史のひとつのエピソードとして、大変興味深いですね。


追記1、壁の色

 この映画の映像で、ひとつ面白いなと思ったのは、ライオネルの診療室の壁の色と、自宅の壁紙のデザインです。特に診療室の壁の色。幾重にも塗り重ねられたペンキが剥げて、何とも言えない色になっています。汚くはない、が、およそ美的とは言い難い。けれども神経に障る色ではない、微妙な色合いです。

 しかも、ヨーク公アルバートが壁ぎわのソファに座る時、カメラは、あのはげちょろけの壁を(強調するわけではないが)少し広めに撮っている。


 あれは、主人公が幼少期から傷つけられ閉ざされた心を抱えていることと関係がありそうですね。主人公が王に即位した後は、ライオネルの自宅を訪ねるので、あの壁はもう画面には登場しません。

 対照的に、ライオネルの自宅の壁は、暖かみがあって、心を落ち着かせる壁紙が貼られています。

 その壁紙が、ヒトラーへの宣戦布告をラジオが報じる時には、冬景色のような模様に変えられています。まるで、これから暗い冬の時代を耐えてゆかねばならないことを暗示しているようですね。

追記2、キャリバンのせりふについて

 それから、繰り返しになりますけれども、シェイクスピアの戯曲のあつかい。そんなことを知らなくても十分楽しめる映画に仕上がっていますけれども、読んだことのある人、舞台を観たことのある人には、もっと楽しいでしょう。

 実は、私も『リチャード三世』と『テンペスト』は、にわか勉強で読んだんですが、大いに楽しませていただきました。 特に、『テンペスト』のキャリバンのせりふは、作品を繰り返し読むごとに味わいが増してゆきます。   舞台となっている絶海の孤島、プロスペローの魔法に支配された島は、ユートピアのようでもあり、人間の欲望がうずまくこの世の写し鏡のようでもある。その島の住人であるキャリバンのせりふは、傷つき閉ざされた心をもったヨーク公アルバートへの“子守唄”のように響くのです。

おっかねぇのか?

怖がるなって。この島は美しい音で一杯、いろんな物音、きれいな音楽、楽しいだけで、何もしやしねぇ。
時には千もの楽器がブーンといって、耳のまわりで響いてる。
別な時には歌声だ、うんと眠って起きたあとでもすぐまた眠くなるような。
そうかと思うと、夢を見る。
雲間が裂けて、宝が見える、それが今にも降って来そうで、だから覚めたらわめいたよおれは、も一度夢を見たいとね。
(木下順二 訳)

未来に試練が待ち受けている厳しい時代であっても、「人生捨てたもんじゃない」、と思わせてくれる。


 『英国王のスピーチ』は、私にとって、シェイクスピアの扉を開いてくれた映画になりそうです。 

『英国王のスピーチ』 “The King ‘s Speech”
(シーソウ フィルムズ/ベッドラム プロダクションズ 2010年、イギリス・オーストラリア合作、118分)
製作:イアン・カニング、エミール・シャーマン
監督:トム・フーパー
脚本:デヴィッド・サイドラー
撮影:ダニー・コーエンBSC
編集:タリク・アンウォー
美術:イヴ・スチュアート
音楽:アレクサンドル・デスプラ
出演:コリン・ファース、ジェフリー・ラッシュ、
ヘレナ・ボナム=カーター、ガイ・ピアーズ、ティモシー・スポール、
デレク・ジャコビ、ジェニファー・イーリー、マイケル・ガンボン ほか

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