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性別とアニメと無性の愛と丸い恋愛関係

性別についての多様化って最近は身近な話題になってきているように思うのですが
そもそも生物学的な性別は二つなのでしょうが
意識としての性別をもっと自由にしようという事なんだと認識しています。


確かに漫画やアニメやいろんな作品で20年前よりは確実に
性別の多様化的なコンテンツは増えていて
それに対して是も非もないけれど

なんていうか
もっと緩くていいんじゃないかと思ったりもしたり。


たまたま見た「先輩はおとこのこ」というアニメ作品。
「これ」と決めつけずに終わっているのが
なんともわたしには心地よく感じた。


・可愛いものが好きで服装も髪型も女の子が好むものを母に内緒で身につけている男子高校生マコトと
・特別感や恋愛感情がわからないコンプレックスから女装したマコトを好きになったと勘違いする女の子サキと
・女装していてもしていなくてもマコトの事が性的に好きだと気づくマコトの幼馴染の男子高校生リュウジ


この3人が仲良くなりそれぞれに自分に向き合う成長の物語。


おそらくマコトはサキの事が好きなんだろうという描写があったりするけど
本人はまだよくわかっていないのが割とリアルだなと思って観ていて

リュウジは自分の気持ちに正直になったことで一つ吹っ切れたようで

サキはわからなかったことはまだわからないままの自分を受け入れられてて


とても大人な3人が素敵でした。


で、観ていて思ったけれど
別に付き合うとか恋愛とかって
一対一じゃなくても良いよね?と。


この3人のような関係性だと
3人のままお互いを認め合いながら3人で付き合えそうな感じがして
それはそれでめっちゃくちゃ素敵だと思った。


女であろうと男であろうと見た目が変わろうとその人が好きだと
そう思えるのって最高に素敵なことだとわたしは思う。


いわゆるカテゴリーに惑わされていない
包装紙に気を取られていない
その人の本質を愛しているからこそ出来ること。


そこに性別がどうとかほんと
ナンセンス極まれりだと、わたしは思う。


どんなものが好きでどんなものが苦手か
それは本当に人それぞれで
そこに一切のカテゴライズがなくなって仕舞えばいいのにと
本気で思う。


だがなくなって仕舞えばいいと願っているだけでは意味がなくて
「なくなる」のではなくわたし自身が「なくす」事が先決なのだ。


わたしの思うカテゴライズとはいわゆる常識的な枠組みとも言い換えられるが
その中にはまり続けることをよしとして生きてきた人間が
その枠を壊して外に出ることは自然と怖いと思えてしまう。


だからはみ出した人間はいろんな抵抗が強くなって時に傷ついて挫折して
もういいやと出ることを諦めようとも思う。
(でもそれは自分で怖いと思うからそんな抵抗が強くなるだけだが)

けれどもそこを抜けた人たちはもはや
突き抜けた人としてもう誰の干渉も受けないほどの次元に達すると
わたしは感じていて
言わば「変態の域」とは「自分の“好き”を貫いた最高に個性を輝かせた人」だと思っている。
その分野がなんであれ。


自分らしくありたいと願いながら
自分らしさを表に出すことも認めることすらも怖いと思い
けれども本音の部分で諦めきれない人が

個性をむき出しにしている人たちを
否定しにかかったりする。


そりゃそうだよな、よくわかる。
自分が必死に抑えてるもの
自分の中から排除しようとしているものを
思いっきり表現している人がいたら
強く否定したくなる。


自分が認めていないものを
他の誰かがやっていたらもちろん認められない。


そんな人が未だ多いのかもしれないが
でも確実に変わってきているとも実感する。


「もうこんな押し付けられて縛り付けられた価値観で生きるのは嫌だ」

そんな心の叫びは若い世代になればなるほど
具体的かつ大きくなっているように感じる。


待ってても大人は変えてなんてくれない。
だったら感情もエネルギーも溢れんばかりな子供たちから
ガンガン発信していけばいいと思う。


大人を非難するんじゃなく、
他の誰かを否定するのでもなく、
ただただ「これが楽しい」「こんな自分が好きだ」を
思いっきり表現していけばいい。


しかめっ面な大人なんか放っといて
その個性を持って生まれてきたことを存分に表現してほしい。


そうしたらそれに感化された大人は必ず
一緒に楽しんで時には力を貸してくれるはず。


大人の中にも自分らしくあろうと変化を願い始めた人はいっぱいいいて
もっと自由に生きたいと願っている人はたくさんいるが
いかんせん下手すぎるのだ。

頭が硬くなってしまっていて
自分自身を縛ることにかけてはめちゃくちゃ上手になってしまっている。
そしてその縛りを人のせいにしがちだ。
つまり長年馴染んできた価値観を手放すのに苦労しがちだ。


「うわー!楽しそう!わたしもそこに行きたい!そんな生き方がしたい!」
そう強く心が震えて願った時に
気がついたら自分の縛りを無意識に解く事ができる。
そんな強烈な光に出会うことを心の中で強く求めるのも
自分を解放する一つの道だと思う。


「今まではこうだった」けど「これからはこうする」
そうやって一人一人の価値観を自立させて確立させて
大切に尊重していけばいい。

自分の感性や価値観を大切に尊重できる人は
他者の感性や価値観も同じく大切に尊重できる。


みんな違ってみんないい
なんて言葉だけでは物足りない。浅い。


みんな違ってみんないい
の前に
自分の中の全ての自分に居場所をしっかり与えてあげて
全ての自分を丸ごと「わたし」としようじゃないか。
不必要な自分なんて、一つもないんだ。


外から植え付けられたカテゴライズに甘んじる事なく
自らの感性・感覚を信じることが
自分を大切にする事であり
自分を大切にするからこそ内側から溢れるのが愛であり
溢れた愛で他者を愛する事ができたなら
見返りも制限も必要のない無償の愛となる。


そんな愛で生きられたなら
常識やカテゴライズなんてなくても
みんな自分を軸に好きで楽しく生きられると思うのだけどな。


逆に常識やカテゴリーにはまることを心地よいと感じる人たちは
同じ感覚の人たち同士で繋がればいい。


そうやっていろんな小さな社会ができていって
それぞれの世界を充実させればそれぞれの社会で干渉は起きにくくなり
個人の多様性と社会の多様性が進むと思う。


そんな世界に移行しつつあると思う今
わたしはどんな世界、どんな社会、どんな自分でありたいかを
より明確にしようと思った。


三角関係なんてもういらない。
それぞれ認め合って
恋愛においても丸い関係を作れるはずなんだ。
結婚してようがしてまいが関係なく、だ。

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