Higher Self
Higher Selfという概念
藤井風というアーティストを2〜3年前に見つけました。その時はアーティストではなく、Youtubeにピアノ弾き語り動画を投稿しているだけだったが、そのユーモアと色気のある風貌・雰囲気は今も変わっていません。色気には茶目っ気が必要なんだと気付かせてくれます。
彼が「何なんw」という楽曲を1年程前にリリースし、正式にメジャーデビューを果たした。
このグルーブ感と岡山弁混じりの歌詞が素敵。私はずっと、失恋した元恋人に向けての歌詞・曲だと思っていたのだが、数日後に彼は曲の説明動画を投稿する。
歌詞は、失恋した元恋人に向けてのものなんかではなく、自分自身の中にある「Higher Self(ハイヤーセルフ)」に向けてだった。このハイヤーセルフは誰しも内側に備えているものだと彼は語っています。
ハイヤーセルフとは、あなた自身です。あなたの未来の、最も理想とする最高の方がハイヤーセルフです。様々な経験を経て、最も高まった状態の存在であり、今のあなたではなく未来のあなたです。
ハイヤーセルフは、あなたが最も効果的にハイヤーセルフに近づく人生を歩むことを望んでいます。そして、それを導いているのです。
「神」という概念は、「人間は主観から逃れられない。だが、我々を常に見守っている絶対的な客観的視点あるはずで、その存在が真に我々を裁いてくださるはずだ」という完全な客観のことを指しているものもあれば、このハイヤーセルフの様に「自分の内側にあって、自分を導いてくれる高次な自分(自身の善心・良心または未来の自分と言い換えてもいいかもしれない)」を指す場合もあります。これは、それぞれの宗派やスピリチュアル指導者によって様々。
調べていくと、彼のアルバムタイトルにもなった「HELP EVER HURT NEVER(常に助け、決して傷つけない)」という言葉から、インドの霊的指導者サイババ氏の思想の影響を受けたと考えられそうです。彼は、父からこの言葉を教えてもらったと語っていました。サイババ氏の教えをいくつか引用します。
有徳の生活は、「私」から「私たち」へ、さらには「神」へと移行する旅である。
自由とは、外部のものに束縛されないことである。他の人間や事物や状況の手助けが必要な者は、その奴隷となる。完全な自由は、この地上に住む人間には与えられない。死すべき人間の本来の目的は、他の人間と結びつき、他の人間に依存することだからである。欲するものが少なければ、それだけ自由は大きくなる。それゆえ、完全な自由とは、完全な無欲のことである。
『物質的、精神的、さまざまな形での見返りを期待することなく行動しなさい。何をなすにつけても真心を込めて行い、自分が完全に満足できる仕事をしなさい。その満足こそ、あらゆる報酬とあらゆる力を、あなたに与えるだろう。
報いは自ずとあらわれる。この点について疑ってはならない』
「欲求に固執する者は、平安を得られない。一切の欲望を捨て、「私が」「私のもの」という思いなしに行動するとき、人は平安へと至る。
それが神(実現)の状態である。この神聖な意識に立脚した者は、もはや迷うこともなく、永遠の自由を獲得する」(バガヴァッド・ギーター)
欲望と執着は、必ず人に不幸をもたらす。愛し、与える人は成功を約束されている。さらに報いを求めず、執着しない人は、最大の幸福を約束されている。
この真実に立って行動すること。それがわれわれに幸福をもたらす、全てだと言える。
われわれが人間として生まれるのは、忘れてしまった神を思い出し、実現するためだといわれる。しかし、まさに肉体を持って人として生まれるということには、どんな意味があるのだろうか。『石が落ちる。そのとき重力は見えなくても、落下する石を見て重力を知ることができる。それと同じように肉体は必要である。それは、見えない神を見せてくれるからだ。
太陽、月、星は空間にあって、秩序正しく運行している。その秩序が一瞬でもゆらげば、全ては崩壊するだろう。その秩序は、何が支えているのだ。見えない神の力ではないのか。人が体を持つのは、内在の神を見るためである』
『この地上における生命の表現は、人から神へと向かうものだ。人に生まれたことの徳により、次のステップは、神を顕現することだ。人間の生は神聖であり、最高の価値あるものと思わねばならない。それは、生死の輪廻から逃れる特別な機会である。
このことは、地球においてのみ起こることだ。この筆舌に尽しがたい、広大な宇宙においても、そのような機会のある星や場所は他にない。地球のみの特権なのだ。だが、人々はそれに気づかず、理解しようとしない。彼らは知らないのだ』
毎日を、愛をもって始め、愛をもって送り、愛をもって終わりなさい。それが神へ通ずる道なのです。
これらの言葉からも、人間の内側に備わった「愛」なるものを「神」と呼んでいるということが窺い知れます。仏教では、内観・観照を用いた「気づき」によって「あるがまま」という状態を目指しますが、これと似ているなと個人的には思いました。何ものにも囚われなかった子供の頃の心に戻るというのは、歳を重ねて染み付いた心の癖・傷、そこから滲み出る自我を取っぱらって、見えなくなったトトロをもう一度見ようとする試みに近いのかもしれません。その為には、私が一体何に囚われているのかという事に、1つ1つ気づいていかなければならないと思います。
「明鏡止水」という言葉があります。私は「バガボンド」という漫画や武道・古武術といったものに興味があるのですが、明鏡止水は武道の教えの中でみられるものです。
「明鏡止水」
小さな恐れ・迷いが、心にさざ波を立てる。それは次の恐れ、嫉妬、怒りを生み、そして争いの螺旋ーーー。我をなくし、心を止水の如く静める。そして相手を、対象を心に写し出す。静みきった水面に月が写るように。そうすれば如何なることにも応じることが出来るはずだ。
日野晃(ひのあきら)氏という武術の達人がいらっしゃいますが、彼は目を合わせるだけで相手を倒したり、相手が攻撃してくるタイミングを誘導したりすることができます。いずれも、止水の様な心に相手の心を写すことができるからなのかもしれません。古武術を研究されている甲野善紀(こうのよしのり)氏も、相手に攻撃を防がれないためには「こうしてやりたい」という私(我欲)を無くしてやればいい、という旨の発言をされています。
我欲に惑わされない心。Higher Selfは、私たちの我欲や思考をとっぱらった先で初めて出会えるのかもしれません。心に立つ波を沈めて止水の上に相手の心を写し出すことで、本当の相手のみを主体とした「愛の行為」を行うことができるだと思います。私も瞑想を行うことがありますが、頭の中の思考・想念1つ1つに気付くことから始めて、次に身体感覚に気付くように進めています。愛を大切に、生きていきたいですね。
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