地に足をつけて、生きる
「生活」
⒈不自由ない暮らし🟰他に依存しているという不自由を抱える
宮台真司氏の言説に触れてからというもの、自分の中に燻っていた「社会内の建前」に対する違和感が強まって、前線に出たまま引き下がらなくなった。「社会」に相対したとき、ある程度の匙加減で適当に向き合うようにしているものの、何か心の底の方で嘘ついて誤魔化しているような感じを拭い去れなくなってきていた。
我々は限りなく合理的に物事を処理しようと、社会システムを組み上げた。生きた生物が死ぬ場面を目撃したり、自身の手でシメたり、動脈を切って血を見たりしなくても、「美味しい(?)」食事を頂けるようになっている。土まみれになったり、虫に刺されたり、汗まみれになったりしなくても、「美味しい(??)」野菜が食べられるようになっている。糞尿を見たり臭ったりしなくても下水が流してくれるようになっている。書けば書くほど枚挙に遑がない。
「生活」に直結する、その根本(食べ物や水がどこから来ているか、排泄したものや流したものがどこへいくか、など)を知らなくても生きていける。これは生きていると言えるのか?
見たくないものを見なくても、聞きたくないことを聞かなくても、考えたくないことを考えなくても、自分だけに都合よく良いとこ取りして生きていける。ご先祖様ありがとうと言いたくなる。先祖の偉い方々が、我々に苦労なく何でも簡単に享受できるようにしていただいたお陰で、我々は自分で火を起こしたり食べ物を作ったり獲ったり(採ったり)することすらできない人間になってしまいました。(決して先祖が悪者であるわけではない)
「生活≒生きること」に直結する活動を免除された分、我々は経済活動への参戦を余儀なくされた。あらゆるものが「お金」という変換装置で賄えるようになったお陰だ。だが、それによって情のないコミュニケーションは増えたし、私たちの「生きている実感や喜び」は濃い影となって、確かにあるのにその実態が見えなくなってしまった。そうなると環境保全などを吹聴しても当事者意識が芽生えにくい。山が裸になろうがソーラーパネルで埋め尽くされようが絶滅危惧種が絶滅しようが、人工物に囲まれた都市からは見えないので素知らぬ顔だ。
人を殺せないという感情の壁すらない者まで現れている事態である。(近代化以降の事件をみれば分かるだろう)
まぁ、少し悲観的かもしれないが、果たして人類はしっかり「成長」しているのだろうか?
⒉システムに全面依存しておきながら、システムに文句を垂れる醜態
全て、金さえ出すことができれば手に入れることができる。食事も電気も水も住居も家具もトイレも服も靴も、専門的な技術を要するものも何もかも。
だが私たちは、自分のあらゆるライフラインやサービスを他に依存しているため、心の底の方に不全感を抱えることになる。これが鬱や多々の気分障害の源ではなかろうか?
この不全感を抱えなかった者、或いは無視した者、見ないようにした者たちは、社会に適応して「もっともらしいこと」を恥ずかしげもなく吐くようになってしまう。私はこれが残念でならない。彼らには「みっともない」とか「情けない」とかという美的感覚の原点がない。
口では社会的な「正論(のようなもの)」をいくら吐いても、ライフラインが止まったら自分で明日食う物すら調達できないというのは、物凄く情けないと個人的には感じる。
本当に中身が空っぽで表面だけ着飾ってるなという感が否めない。
会社や会社の人、店や公的サービスその他なんでもだが、文句があったら直接掛け合うのが私は美しいと思う。そこでどういう掛け合いの仕方があるのかは、やはりコミュニケーションのお作法の問題である(関西、特に京都的なるものから学ぶ)。そこでどういう振る舞いができるかが、その人間の力量が試されるところだ。
主張が法的に正しいとか、独りよがりでありながら論理になかっているなんてのは、建前の世界を本気になって信じ込んだ愚かな振る舞いだ。それこそ醜態を自ら気付かないで晒すようなものなのである。
「システムやサービスに全面的に依存してる自分が悪い」という観点をバランスよく取り込めば、昨今巷に溢れている炎上騒ぎやアナタの会社でも流れているゴシップネタや自分が勤めている会社にダラダラ愚痴を垂れることなどが、如何に愚かで情けないかわかるだろう。
自分がモノを言えないとか何もできないとかいうのなら、黙っていればいいだけだ。力をつけた上で、社会の矛盾点なりなんなりに対してコミュニケーションの作法をわきまえた掛け合いを行うのが、筋が通っていて気持ちが良い。何よりその方が、相手が自分を認めてくれるから話が通じやすい。
時には、自身の至らなさを噛み締めて沈黙するということにも、ある種の振る舞いの美しさがある。
⒊大人になれない若者たち
肉体は、勝手に大人になっていく。だが、精神はそうはいかない。
心はいつもなおざりにされる。
肉体を鍛えるということは、あらゆる側面で単純だ。極めて科学的に運動と食事管理などのすれば殆どの人間が同様の結果を得られるし、何より「目で見て」わかりやすい。
水は低きに流れ、人は易きに流れる。昨今は、生き方(=実存=その人の人間性)に関して度外視し過ぎている。
というより、専ら社会内の「被害/加害」図式の蔓延で、「人間性を育むのに必要な精神的負荷(※暴力や罵詈雑言ではない)」がかけられない、あるいはそれを避けても生きていけるように社会の風潮が変化しているというのは、確かに言えることだと思う。
何かというと被害感情が吹き上がり、その恥知らずな振る舞いを咎めるコミュニケーションを支えるため精神的共通前提は、地域社会の空洞化とともに消え去った。だから周囲の人間たちも社会全体も、吹き上がった過剰な被害者に、「平等」という口上でもって過剰に対処を迫られる次第となっている。
過剰な被害感情は、言い換えれば「過剰な自己防衛」だ。
周りが敵になれば、自分は仮初の「正しさ(?)」を得て、一時の精神的安定を得る。だが、根本的には何も解決しない。周りも「正直面倒くさいヤツだな」と思っている。
「大人に成る」ってことは、「社会のせい」と「他人のせい」と「自分のせい」をバランスよく俯瞰できることだ。あらゆることは極論で片がつくほど単純にはできていない。
松岡正剛氏がNewspicksへ出演し、「現代日本の”知”は、各論はあるが総論がない、皆が参照する共通テキストもない」という旨の発言をしていた。これは私も共感するところである。
若者たちの価値判断の基準となっている根源は一体どこにどう通じて、どのような広がりを持っているのか、その文脈を説明できる人間がどれほどいるだろう。
精神科医の益田裕介氏は、昨今の人々に関して「精神的に視野狭窄になっている節はある」と言っていた。
理不尽な事や不可解な事を体験して、それに自分にとって都合がいい安易な解釈を与えるという無様な真似をしないでしっかり考えようと思えば、自分の頭だけでは分からない事が山のように出てくる。それを一つずつ潰していけば、いずれ自身の視野狭窄に気づくだろう。
だが、気づかない。人は易きに流れる。「見たくないものは見ない」という人々は、そのまま生きていくだろう。それでも生きられる社会システムがある。よかったな。
かくいう私も、その社会システムに登録された人間だ。この社会システムから完全に逃れることはできない。「あれはおかしいなぁ」「この振る舞いは情けないなぁ」なんて思いながら、実際は適当にやっていくのが現実的なのだろう。
だが、極めて自覚的に。
⒋生(きるための)活(動)
焚き火台、防火シート、キャンプ椅子・テーブル、火バサミ、火吹き棒、火消し壺、薪…
昨年に、焚き火実践をすべく揃えた道具たちだ(大半は妻が誕生日プレゼントで買ってくれたもの)。今年は炊飯用のクッカー、着火スターター、着火剤(我らが愛媛県今治の「今治のホコリ」)を買い足した。より自分の力で火おこしができるようにするためだ。着火スターターで火をつけるのはライターやマッチと比べると効率は落ち、その分自分の力でやる分量が増える。それが良いのだ。いずれはもっと増やしたい。
いずれはタープとシュラフで野外泊や渓流釣り、山菜採り、最終的には狩猟までできれば最も良い。
経済活動に参入していくのはなんだか馬鹿らしくなってきている。「投資をして資産を増やさないと、これからの時代は生きていけない」などと口にする若者は、社会システムに依存(それがなくなると食料や住処を自分の手でつくることができない、即ち生きていけないという意味で”依存”)している。その投資活動がどのような余波を生み出すのかまで、ある程度は勘定にいれてあるのだろうか。
基本的には自分たちの力で生活し、部分的にかつ自覚的に文明の理にあやかるという「程度」を弁えておかないと、いつの間にかシステムの側にとって都合の良いように自分が使われ始める。
そう、資本の自己増殖(資本主義)のために投資で資産を増やして、増やした資本は自分だけの一時の安心感を得ただけで、そのまま孤独死するか施設に放り込まれて適当な扱いをされて死ぬか。資本主義にその人の全体が取り込まれて、資本主義に人が使われる。これを「自立」とかぬかすヤツは、一体どこに「立って」いるんだろう。
美味しいお肉の向こうに、家畜が無惨に殺されている。美味しい野菜の向こうに、土の中の虫や菌がいる。美味しい水の向こうに、大地や海がある。下水の向こうでは、微生物が働いて浄化している。私の向こうには、故郷や死んだ先祖がいる。見たくないもの、聞きたくないもの(私はなんなら喜んで見たいぐらいだが)がたくさんあって、それに自分たちは支えられている。
自分のやった行いが、どう波及していくのかをいつも考える。いざという時にはその「責任(落とし前をつける行為)」をどのように取るべきだろうなどと夢想する。
そう考えていると、自分が人に働きかける行為が一体どこから来ているのかを、必然的に考えざるを得ない。でなければ、無責任かつ自分の正しさを証明するためという独りよがりに他人を巻き込むことになる。
「生きる」ってのは、全ての生命体への贈与の源である「原生自然」の織りなす循環の中に棹さし身を委ねることではないか。
生まれてくることに大した意味はない(後付けの人為的で社会的な紛い物のくだらない意味はいくらでもあるだろう)し、生命が幾年も生きてきた「原生自然」の前には、ヒト(ホモ・サピエンス)が生きるか死ぬかなど、本来どうでもいいことだ。どう生きてったって、どう死んだって、どっちだろうがどうでもいい。あらゆる生命がそうだ。
人間が食べ物を獲って(採って)調理して食べること、飲み水のこと、排泄をすること、洗い物をすること、雨風を凌ぐ家屋や家具のこと、風呂、移動手段のこと、人間以外の生命体や大地・山・川・海の循環のこと…
そういう足元のいろいろを、「生きること≒生活」のことを、地に足をつけるために学ぶ必要がある。
そう決意し、2024年(25歳)を生きる。
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