前だけを向き続けた、SHIBUYA CITY FCの10年間。
SHIBUYA CITY FCは、設立から10年の節目となった2024年、ついに東京都リーグを卒業し、2025年から関東サッカーリーグに参戦することになりました。
「たかだか『J6』相当のリーグに上がるのがそんなに大変なのか?」と思われていた(僕もやる前は思ってました)中で、どうやったらこの難しさが伝わるかと考えたときに上記のような図を思い付き、発信してみました。
その結果、思いの外多くの反響をいただきました。
(反響の大きかった理由としては、Jリーグサポの方に「いかにJリーグにいるだけでも尊いか」を感じてもらったのかなと思います)
この関東昇格までの10年は、ドラマというドラマの繰り返しでした。
ご縁というご縁の積み重なりでした。
普段、パブリック向けの話は創業者であり会長の山内や、代表の小泉から出て行くことが多いので、トップではない僕の視点からどんな10年間だったのか、特に東京都1部から関東昇格を目指したこの4年間がどうだったのか、文章として残しておきたいなと思ってつらつらと綴っています。
きっと超長文になりますが笑、興味のある方はぜひ最後までお付き合いください(17,707文字)。
自己紹介
「東京にもシティを」で始まったTOKYO CITY F.C.
SHIBUYA CITY FCは、2020年までTOKYO CITY F.C.という名前でした。
2014年、マンチェスターシティに続いて、どうやらニューヨークシティFCが出来るというニュースを見て、「じゃあ東京にもシティ作っちゃおうぜ」「どうせなら自分たち(当時は若者)がかっこいいと思うクラブにしようぜ」というノリで最初は始まりました。
(山内のnoteにはもう少しちゃんとしたこと書いてあります)
僕自身、当時はスポーツビジネスを志す意識高い系の大学1年生。発起人である一樹さんの会社でインターンしていた頃に、「面白そう!」と思って立ち上げから参画させてもらいました。
(大学で楽しくサッカーをプレーする場がなかったこともあり、ちょうど良いなとも思っていました。なので、最初はみんな選手でした)
登録が間に合わなかったため、初年度は東京都リーグではなく世田谷区リーグ4部に参戦。若くて動ける(且つ多少はサッカーキャリアがある)メンバーが多かったこともあり、初年度で4部リーグで優勝するだけでなく、1部まで含めたカップ戦(通称コパセタガヤ)でも優勝してしまいました。
勢い調子に乗って翌2015年から東京都リーグ4部に参戦すると、ここでも初年度で優勝し、東京都リーグ3部への昇格を決めました。
ここまでは順調でした。
2016年は東京都リーグ3部、ここでも「連続で昇格するぞ」と意気込んでシーズンに入りますが、そうは問屋が卸さないのがサッカーというスポーツ。
相手のレベルも高くなり、開幕から4試合で0勝2分2敗。
1敗でもすると昇格が厳しくなると言われているリーグで、早々に昇格が絶望的になってしまいました。
その後は尻上がりに調子を上げていきましたが、最終的には東京U23(東京23FCのセカンドチーム。現東京23江戸川)に東京都リーグ2部昇格を譲りました。
(僕も全くの未練なくこの年で選手は辞めました)
法人化に向けて
東京都3部2年目となった2017年は、初の大型補強(!?)を敢行。セレクションなどを通じて選手権優勝を経験した選手や、大学の体育会サッカー部でしっかりサッカーをしてきた選手も加入してくれました。
開幕から連勝に連勝を重ねながら、迎えた無敗同士の大一番で迎えた相手は、慶応BRB(慶応義塾大学ソッカー部OBチーム)。サッカーエリート集団の相手に全く歯が立たず、1-4の完敗。2年目の挑戦も潰えました。
一方、僕個人としてはこの年で大学を卒業し、LOCUSという映像系の渋谷のベンチャー企業で働きながら、朝夜土日はCITYに捧げるという生活スタイルにシフトしました。
CITYは(ほぼ)ノリで始まったチームということもあり、「PLAY new FOOTBALL, PLAY new TOKYO」というコンセプトこそあれど、何をどこまで目指すのかは明確に定まっていませんでした。
けど、僕個人としては大学4年間で世界各国のサッカーを観に行ったり、日本サッカー界の様々な場所で働かせていただいたり、もちろん学業でも学んだりする中で、「東京のど真ん中、渋谷にサッカークラブがないのは、日本サッカー界にとっても、日本社会にとっても大きな損失」だと思うようになりました。
そして、誰もそれをやらないのであれば、自分が(自分たちが)やるしかないと思うようになりました。
なので、就職の時点で「数年で営業力と社会人の基礎を身に付けて、クラブが法人化するタイミングで辞める。そしてフルタイムで働き本気で渋谷からJリーグを目指す」と決めていました。
この年は、それなりにリソースを割いて昇格を目指していたので、ショックはそれなりに大きかったなと思います。
そして迎えた東京都リーグ3部3年目。2018年。
今やクラブのレジェンドである峯さん(前年の東京都1部ベストイレブンのGK)が(なぜか)加入してくれ、リーグ10試合を全勝で乗り切り、優勝・東京都リーグ2部昇格を決めることができました。
そしてこのタイミングで、クラブとしても「本当にどこを目指して行くのか?」を話すようになりました。
「今までの楽しさや面白さは失いたくない」
「けど強くなきゃ何言ってもダサくない?」
「Jリーグを目指しちゃうと普通のサッカークラブになってしまわないか?」
そんなことを永遠に議論していた気がします。
けど、僕は上記の通り覚悟を決めていたので、そのことを当時代表だった一樹さんにぶつけていたと思います。
初のプロ契約阿部翔平。渋谷からJリーグへ。
そして、(当時の一樹さんの中でどんな思考の変化があったのかは分かりませんが)このタイミングでチームを法人化(株式会社化)し、渋谷からJリーグを目指していこうと定めました。
僕も当時働いていたLOCUSに辞めることを伝え(新卒2年も経たずに辞めてしまったことは本当に申し訳なかったですし、自分が活躍して結果を残すことでしかその懺悔はできないと思っています)、2018年の年末から2019年の年始までは毎週のように集まってMTGし、法人化準備を進めました。
今だから言えることとしては、当時はまだ24歳だったから会社を辞めて法人化したサッカークラブに全てを捧げる、という選択ができたなと思います。もうすぐ30歳を迎える今だったら絶対できない選択です。
そもそも売上の目処は全く立っていなかったし、そんな中で、色々なご縁から元日本代表の阿部翔平選手(名古屋グランパスやヴァンフォーレ甲府で活躍)がなぜかうちに興味を示してくれて、なぜか加入することになったんですから。しかもクラブにとって初となるプロ契約で。
自分の給料だけならまだしも、阿部選手の給料分も自分が稼がなきゃいけない。何も目処はないのに。
24歳、しかも唯一のフルタイムである自分にとって、あまりにも大きなプレッシャーだったことは容易に想像が付くと思います。
それでも、ご縁から初代オフィシャルトップパートナーであるQueueさんが数百万単位でユニフォームの胸スポンサーとして支援してくださることが決まり、2019年のシーズンを戦いました。
このシーズンは、法人化1年目、そして渋谷からJリーグを目指すという宣言や阿部翔平選手の加入などで今までとは全く違う注目とプレッシャーを感じながら戦いました。
しかし、結果は残念ながら2位で昇格ならず。優勝・昇格を決めた東京U23(またもや…。)とは勝ち点が並んでいましたが、得失点差で「2」及ばずに2位という、非常に悔しい結果でした。
一方、事業に関しては色んなご縁の積み重なりからNIKEさんが渋谷のクラブで行う「LIGHT PALLETTE FUTSAL」のプロモーション案件をご一緒させていただくなど奇跡が積み重なり、なんとか法人化初年度で黒字化に成功。
「顔を出せる機会は全て顔を出そう」と気合で渋谷区内の各所にお邪魔させていただくことで渋谷区内でのつながりも飛躍的に増え、「渋谷にJリーグクラブを作る」ことの意義をより強く実感するようになっていました。
法人化と並行して、実は渋谷区に引っ越したのも2018年末です。
「『渋谷からJリーグを目指す』と言っているにも関わらず、渋谷区に住んでいないのは全く説得力がない」と思ったので、チームのメンバーとのシェアハウスという形で引っ越しました(当時は4人で住んでました。この時の話はまた追って。。)
気付けば渋谷区民になってから6年を迎え、もはや「この時渋谷区に引っ越していなかったらどうなっていたんだろう」と恐ろしくなります。
(そのくらい大きな、そして最高の決断でした)
東京都リーグ2部で2年目となった2020年。みなさんご存知の通り、コロナ襲来です。
前年度の黒字化を受け、僕だけでなく現代表の小泉や役員の畑間などもこのタイミングで一気にフルタイムになりました。
しかし、コロナ禍でチームは活動休止、しかもコストは増えたのに売上増の目処がなくなる、と言った状態でいきなりピンチに陥ります。
それでも、テレアポ代行など生き残るために出来る限りのことを尽くしてなんとか食い繋ぎました。この時に泥臭く生き残ることができた経験は間違いなくその後の自信になったし、少しのことでは動じないようになったなと思います。
チームに関しては、先日引退を発表した宮崎泰右選手が(なぜか)加入。7月開幕、リーグ戦は6試合のみ、最後にH&Aでプレーオフを行って昇格を決める、という超変則レギュレーションでしたが、最後はT.U.A(東京農業大学サッカー部)を破り2年目にして東京都リーグ2部を突破、東京都リーグ1部昇格を決めることが出来ました。
満を辞して「SHIBUYA CITY FC」に改称。
そして、2020シーズンを戦いながら準備していたこと。
それが、「SHIBUYA CITY FC」への改称です。
設立から6年間に渡ってTOKYO CITY F.C.として戦っていましたが、渋谷からJリーグを目指す以上は遅かれ早かれSHIBUYAにするべきだと思っていました。
実際にTOKYO CITY F.C.として活動している中で「SHIBUYA CITY FCにしなよ」と渋谷の関係者の方々から言っていただくことも多くあり、このタイミングでの改称を決断しました。
今でこそ東京23区の各区からJリーグを目指すチームは増えましたが、当時はまだ主流ではなかったのかなと思います。むしろ、Jリーグ全体で見れば「ホームタウンを拡大する(例:コンサドーレ札幌→北海道コンサドーレ札幌)」方が主流で、このポイントだけ見ると「TOKYO」から「SHIBUYA」への縮小に見えなくはないのかなと思います。
けど、これは最高の決断だったと、心の底から言えます。
渋谷に関わる方々からの見え方は変わりましたし、リブランディングに伴ってファンも飛躍的に増えました。
また、渋谷区を代表する企業である東急さんや伊藤園さんがスポンサーに入ってくださったのも、このタイミングからでした。
期待と裏腹に、大きな挫折を味わったSHIBUYA初年度
そんな大きな期待を背負って、いざ、1年で東京都リーグ1部を優勝し、関東リーグに昇格するぞ!と挑んだ2021シーズン。結果は散々でした。
このシーズンから、監督を初めて外部から招聘し、有望な若手選手(河西守生、大津佑和、大村俊輔、上田悠起など)が加入し、さらに今まで平日夜にトレーニングしていたところを、平日朝とのハイブリッドに変えて挑みました。
正直、このシーズンまではそこまで深くトップチームに関わっていなかった(良くも悪くも事業と強化で分かれていた)ので、僕自身もトップチームの実態をリアルタイムで正確に把握できていませんでした。
けど、蓋を開けてみるとそもそも練習には人数が全く揃っておらず、選手とスタッフの信頼関係はほぼ皆無、今思えばチームとして完全に崩壊状態。
リーグ戦は最終的に16試合で7勝3分6敗で7位。東京都リーグ1年目は、昇格とは程遠い結果に終わりました。
組織体制の変更と、戸田さん。
10年間の中で一番しんどかった時期がいつだったかと聞かれたら、間違いなくこの時期と答えます。
チームとしても、クラブとしても完全に崩壊状態で、本当に、色んなことがありました。
結果的には組織体制を大きく変更し、代表をしていた(山内)一樹さんが会長になり、(小泉)翔さんが代表に就任。併せて、GMと監督がクラブを去りました。
一方で、希望もありました。
まずは、阿部翔平選手が残留すると決めてくれたこと。
そして、その阿部選手が若手選手たちを安心させ、そして一緒に残ってもらうために話をしてくれたことです。
特に、サッカー選手として上を目指す若手にとって1年はあまりにも貴重です。
そんな中、前年のチーム状況を見た中でも彼らが残留を決めてくれたというのは、相当な決断だったと思います。
誇張抜きで、この時に彼らが僕らフロントスタッフを信じて残留してくれなかったら、今のSHIBUYA CITY FCは存在しないと思います。
だからこそ彼らに対しては特別な思い入れがあるし、心から感謝しています。ありがとう。
また、チームの体制などを考える中で、2割冗談8割本気で「戸田和幸さんにチームを指揮してもらえないかな?」と話していたところ、様々なご縁とタイミングが重なり、本当に戸田さんがチームを率いてくださることになりました。
(本当に戸田さんが来てくれるとなった時は震えました)
(この辺りの裏話は、当時小泉がnoteに書いています)
また組織体制を変更し、金銭的なリソースも人的なリソースも全く足りなくなり、僕もトップチームの現場に行くことも多くありました。
2022シーズンの始動当初、そもそもマネージャーもチーム備品を運ぶハイエースの運転手もおらず、僕、役員の畑間、代表の小泉で分担してハイエースの運転&マネージャーをしていたのは良い思い出です。笑
一方で、この頃は営業もやりつつ初めてちゃんとチームの現場にも向き合ったことで、「チーム」というものが何なのか、初めて肌感覚で理解できるようになっていった気がします。
また何より、戸田さんから日々の指導やスタンス、そして選手だけでなくフロントにも求めるサッカークラブとしてのあり方などを間近で学ばせていただいたおかげで、おそらく普通のサッカークラブのフロントスタッフでは体験(理解)出来ない現場の感覚を血肉にさせてもらえたように思います。
最終的に、目標としていた関東昇格までは「あと2勝」のところで敗れてしまい到達できませんでしたが、前半戦で破竹の9連勝を経験したり、初めて関東社会人サッカー大会(関東昇格トーナメント)に出場できたりしたことで、「関東昇格」のために何が足りないのかを実感することが出来ました。
(それでも、燃え尽きるくらいには努力したので相当の悔しさはありました)
増嶋体制、二度目の挑戦。
2022シーズンを終え、戸田さんはJリーグSC相模原の監督に就任するということで退任。
選手兼フロントスタッフとして活動していた裕介さん(田中裕介 / 元横浜Fマリノス / 川崎フロンターレなど)が現役を引退・フロントスタッフ専任となり、まずは監督探しに着手しました。
ただ、前任が戸田さんということで中途半端な人は監督に出来ない一方で、Jリーグクラブのような高い報酬がなくとも監督をしてくれる方、そして何よりも、この社会人カテゴリー特有の環境(練習、試合など)でも前向きに取り組んでくれる方を見つけなければいけなかったので、監督探しは難航しました。
その中で白羽の矢が立ったのが、高校時代から裕介さんとつながりのあった増嶋竜也さん。
言うまでもなく現役時代のプレーやイケメンぶりは良く見ていましたし、何よりもご本人がJリーグクラブでの監督を目指している(当時は市立船橋高校サッカー部のコーチ)と聞いて、一緒に成長していくという観点から考えても最高だなと思っていました。
そして迎えた2022年12月31日、社員LINEで翔さんから「増嶋監督、決まった…!」の連絡を受けてこの年の仕事は納めました。
また、2022年のシーズンを通して選手は平日午前練習、午後仕事というスタイルを確立できたこともあり、反省も踏まえつつ、2023シーズンは選手を若手中心にシフトしてより強度の高いチーム編成を構築することができました。
その結果、リーグ初戦は本田圭佑さんがオーナー兼GMを務めるEDO ALL UNITEDに敗れたものの、その後は連勝に次ぐ連勝。
最終的には、18試合を戦い16勝2敗で初めて東京都リーグ1部を優勝、東京都王者として二度目となる関東昇格トーナメントに挑むことになりました。
また僕個人としては、社員兼マネージャーとして元インターンの大暉が新卒で入った会社を2年で卒業、カムバックしてくれたことで、基本的に現場に行くのは試合日だけになりました。
一方、もう何年もこの「都道府県→関東リーグ」昇格の壁に阻まれている先輩クラブを見ていて、「ここで勢いを持って上がらなければ停滞してしまう」という強い危機感もありました。
その中で、普段は営業をしている自分が「1%でも昇格の確率を高めるためにできることは何か」を考えた結果、やっていたのが土日時間を使ったスカウティング活動(対戦相手の試合映像撮影、分析)でした。
改めて関東昇格トーナメントを説明すると、下記のようなポイントがあります。
関東圏の都県リーグ1部上位の全16チームが出場(東京は上位3チーム
大会形式は一発勝負のトーナメント。負けたら即敗退。
決勝に進出した2チームのみ翌年の関東リーグ2部に昇格できる(ただし、JFLから関東圏のクラブが降格した場合は入替戦の発生)
1・2回戦と準決勝・決勝は2日連続で行われる(中0日)
前年に敗れたのは2回戦。
もちろん1回戦の相手の試合も撮影して分析していましたが、どうしても直前での分析になるので準備時間もほとんどなく、スタッフ側も選手側も相手の特徴をインプットし、対策を講じるには時間と参考映像に限りがありました。
また、このカテゴリーの試合がDAZNのように中継されているはずもなく、僕らのようにYouTubeライブ配信をしているチームも非常に少ないため、そもそも抽選で決まる1回戦の相手の映像を入手できるとは限りません。
そのため、各県リーグの順位表と日程を眺めながら目星をつけ、7月頃から神奈川や千葉、埼玉はもちろん、栃木や山梨にも足を運んで試合映像を集めて、分析に使えるようにしていきました。
(無限にお金があればバイト雇えるんでしょうが、物理的に車が必要と考えると相当なコストになるのは間違い無かったので、給料が発生しない自分がやるしかないと思ってやっていました)
そして迎えた関東昇格トーナメント本番。
初戦の相手は、埼玉県2位の越谷FC。トーナメント特有の緊張感で難しい試合になりましたが、後半アディショナルタイムの劇的ゴールで突破することができました。
そして2回戦は、リーグ開幕戦で敗れた因縁の相手・EDO ALL UNITED。スコアこそラストワンプレーでの劇的ゴール勝利でしたが、まさにパーフェクトゲームと呼べるに相応しい内容での勝利でした。
勝てば昇格が決まる準決勝。相手は埼玉県3位のCOEDO KAWAGOE F.C。
地獄が待っていました。
試合は優勢に進めながらもセットプレー2発に沈み、敗戦。
関東昇格まで「あと1勝」のところで、また一年やり直しとなりました。
はっきり言って、前年とは比べ物にならないほどのダメージでした。チーム崩壊してもおかしく無かったと思います。
同カテゴリーの中で頭ひとつ抜けた戦力と体制を整え、リーグ優勝という結果も出し、みんなが人生を賭けて戦ってきた。なのに、最後の最後で敗れてしまう。
今だから言えることとしては、クラブとして最後の最後で気が緩んでいたと思います。
1・2回戦を劇的ゴールで勝ってしまったことで、浮かれ気分になってしまっていた
「東京王者の自分たちが、埼玉県3位のチームに負けるはずがない」と思ってしまっていた
誰も口にはしていませんでしたが、心のどこかにあったし、言動にも表れてしまっていたと思います。
敗北を受け入れる。
試合終了のホイッスルが鳴り、天国と地獄が明確に分かれた瞬間、僕は感情を捨てました。
泣いてる暇なんてない、泣いて悔しがってる時間があるなら、その分前に進むしかない。
そう自分に言い聞かせて、応援に来てくださった方々に感謝を伝えると共に、ここからどれだけ早く立ち直って前に進めるかで、翌年昇格できるかが決まる、と覚悟を固めていました。
その日、渋谷のオフィスに戻って最初にやったことは、敗れたこの試合のハイライト映像を作ることでした。
実は前年、トーナメント2回戦で負けた後は放心状態になってしまい、その後も結局なあなあになってハイライト映像を作れませんでした。
けど、僕の中で「それは負けを受け入れられていないことの証明なのでは」とモヤモヤした気持ちをずっと抱えていました。
前述の通り、出来る限りの準備をして臨み、はっきり言って勝てると思って挑んだ試合でした。
試合内容的にも、サッカーの理不尽さを詰め込んだような内容で、中々負けを受け入れ難い内容でした。
けど、だからこそ、きちんと負けを受け入れて、前に進まなければ行けないと思いました。
そして、自分の中でその区切りをつけるための行動が、まずハイライト映像を作ることでした。
確か、その時にデザイナーの文也さんやマネージャーの大暉からは「心臓に毛でも生えてんのか」とお褒めの言葉をいただきましたが、そうしなければ翌年昇格できない気がしていました。今思うと、正しかったと思います。
チームとしては、まずは翌日に翔さん、裕介さんがますさん(増嶋監督)と長時間に渡って話し、ますさんの残留が確定。
そして翔さん裕介さんを中心にチーム編成にも動き、かなりシビアに選手補強を行いました。
確かに、同じカテゴリーの中ではトップクラスの陣容を整えていたし、それだけでなく毎日決して手を抜くことなくトレーニングに励み、スタッフも出来る限りの準備をしていました。
それでも手が届かなかったということは、前述のような少しの心の隙や何か足りなかったことがあるということ。
契約更新のオファーを出した選手たちは、ほぼ全員が覚悟を決めて残留してくれました。
そして事業面でもありがたいことに多くのスポンサーの皆様にも継続、さらには増額いただいた企業様も多くあり、文字通りクラブに関わる全員で前年の悔しさを背負い、三度目の正直に向かいました。
10周年で、三度目の正直へ。
そして迎えたクラブ設立10周年にして、東京都リーグ1部4年目。2024年。
2年目のトモ(水野智大)を会長に選手会を発足し、前年の反省点であったチームとフロントの意思疎通を図る機会を設定。
渡邉千真選手や三原雅俊選手をはじめJリーグで実績のある選手から若手まで頼れる選手たちも加入し、万全に万全を期して臨んだシーズンとなりました。
リーグ開幕前の東京カップ(天皇杯予選)では、本職GK不在の1次戦に始まり、2次戦では関東リーグ1部の東京23FCに勝利。クラブとして初めて関東1部のチームに勝利し、自信を持ってリーグ戦に挑みました。
第3節の東京ベイFC戦こそ引き分けましたが、その他の試合は全て勝利し、さらに6月の全社予選では関東1部・南葛SCにも勝利し、10月の全社本戦への出場が決定。
7月のIntel Biloba戦、8月のCERVEZA戦に引き分けてしまったものの、4バックだけでなく3バックも試しつつ、さらにメンバーも全く固定することなく様々な選手を起用しながら、「全ては11月の関東昇格トーナメントのために」リーグ戦・全社予選を戦い抜きました。
ターニングポイント:EDO ALL UNITED戦
そして昇格に向けてターニングポイントになった試合。それが、リーグ最終節のEDO ALL UNITED戦でした。
この試合は、クラブとしては初となる代々木公園でのホームゲーム。しかし、15勝1分0敗という見事な成績を納めていたEDO ALL UNITEDに優勝は決められてしまっており、文字通り「プライドをかけた」最終節でした。
しかし結果は、0-1の敗戦。
ホームゲーム。最終節。相手は無敗優勝確定。自分達は初の黒星。
文字通り屈辱の敗戦でしたが、振り返ってみるとこの試合がポイントだったと思います。
まず、戦術面では前半上手く行かなかった4バックではなく、途中から変えてペースを掴めた3バックで戦い抜く覚悟ができたこと。
そして何より、クラブに関わる全員にとって「関東昇格トーナメントの決勝でEDO ALL UNITEDにリベンジして、優勝して昇格する」という共通した明確な目標ができたことです。
結果論かも知れませんが、前年のもう一つの反省点として「大きな挫折を経験しないまま、クライマックスを迎えてしまったこと」もあったように思います。
リーグで優勝し、自分達なら上がれるだろうという自信(過信)を持って昇格トーナメントに挑んでしまっていました。
けど、リーグ戦の最後に敗れ、ある種プライドをへし折られたことで、良い意味での危機感を持って最後のクライマックスに向かうことができたと思います。
モメンタム作りとしてのスカウティング
僕個人としては、前年と同様、クライマックスに向けてフロントスタッフの立場で何が出来るだろうと考えていました。
そして結論としては、フロントスタッフも一緒になって戦っているという姿勢をできる限り選手に示して、クラブ全体としての一体感や勢いのようなものを作る以外にないなと思いました。
(スタートアップっぽく言うと、「モメンタム」ってやつですね)
なのでもちろん、前年と同じく対戦相手のスカウティングはめちゃくちゃしました。
特にリーグ戦の戦績から、東京都2位でトーナメントに向かうことが濃厚だったので、各県の1位のチームを中心にスカウティングを敢行。
(各県1位のチームは、必ず1回戦は他県の2位以下のチームと対戦)
1回戦で当たったザスパ草津チャレンジャーズの試合も対戦が決まる前から撮影しに行ったし、2回戦で当たった山梨学院大学ペガサスも自分で撮影するだけでなく、山梨にゆかりのあるOBネットワークを活用して出来る限りの情報を収集していました。
(仮に2回戦で房総ローヴァーズ木更津が勝ち上がって来たととしても、同様)
純粋に追加予算を捻出する余裕もなかったということもありますが、「本来は営業である自分がスカウティングもしている」とチームに示すことにも意義があると思って、敢えてやっていた側面もあります。
(けど、土日潰れて休みなくなるのでもうやりたくないです。笑 関東リーグからは全チームの試合映像がクラウドで共有されるとのことで安心してます。笑)
また、デザイナーの文也さんやマネージャーの大暉が関東大会では1試合ごとにモチベーションムービーを作っていて、きっとこれもモメンタム作りという観点では有効だったのではないかという気がします。
(とはいえ、大前提として監督・トレーナー・現場スタッフ・選手たちの不断の努力があってこそです)
熱狂の1ヶ月
10月19日に全社(全国社会人サッカー選手権大会)が滋賀県で開幕し、関東昇格トーナメントが終わるのが11月17日。
文字通り勝負の、運命の、熱狂の1ヶ月。
僕もフォトグラファー兼スカウティング担当としてチームに近い位置で一緒に戦わせてもらい、日に日にチームを取り巻く熱量が高まっていくのを感じました。
全社では滋賀県まで全員でバスに乗って向かい、初戦で中国リーグ王者の福山シティFCに勝利。
翌日の2回戦では東北王者のブランデュー弘前に敗れたものの、レベルが高い相手との試合を通じて選手たちの本来の力がどんどん引き出されていく姿を目の当たりにして、この時点で去年とは全く違うなと感じていました。
そして、迎えた関東昇格トーナメント本番。
1・2回戦の会場は、山梨県。
各自夕食を済ませ、MTG会場では自分とインターン生の大洋が作ったスライドをもとにますさんが前日MTGを実施。
短期決戦は、とにかく初戦が全て。初戦に勝つのはもちろんのこと、どんな勝ち方をするかが大事です。
過去2大会の僕らは、いずれもギリギリの戦いを制したことで喜びの大きさこそ大きかったものの、そこで力を使い果たしてしまった感も否めませんでした。
一方、過去に昇格していったチームを見ていると、特に1・2回戦は単に勝つだけでなく、複数得点を決めて勝ち上がっているチームが多くありました。
だからこそ、この1回戦に勝つことはもちろんのこと、複数得点で余裕を持って勝ち切ることができるかどうか。
昇格できるかどうかはそこに掛かっていると思いながらMTGを聞き、そして選手たちの自信に満ちた表情に安心して、宿に戻りました。
そして迎えた11月2日(土)。運命の関東昇格トーナメント1回戦。相手は群馬県王者のザスパ草津チャレンジャーズ(ザスパ群馬のセカンドチーム)。
天気はあいにくの雨。グラウンドの水捌けも悪く、水溜りが出来ている状態でした。
さらに、自分たちの前には1回戦の最注目試合であったEDO ALL UNITED(本田圭佑さんがオーナー)対品川CC(槙野智章さんが監督)が行われており、会場のYSKe-comシルクパークは独特の雰囲気に包まれていました。
とんでもない試合だったEDO対品川が気になる方は槙野さんのYouTubeからご覧ください。
三度目の挑戦
毎年チーム力は積み上がっており、いよいよ昇格するしかないシチュエーション
トーナメントの大事な初戦
ピッチ環境は劣悪、雰囲気も独特
この状況で緊張しないはずがありませんでしたが、ピッチに立つ選手たちは落ち着いていました。
試合が始まると、割り切るところは割り切り立ち上がりから自分たちのペース。
そして迎えた前半15分。
リョウ(#8植松)が連続ワンツーからPA内に侵入し、ソウタ(#13佐藤)のゴールをお膳立て。先制。
張り詰めた緊張感が一気に爆発し、歓喜と共に僕も肩の力が抜けたのを感じました。
余談ですが、クラブを法人化した2019年からNPO法人グリーンバード(全国各地でゴミ拾いをする団体)の表参道チームサブリーダーをしていて、毎月2回、表参道原宿エリアでのゴミ拾いをしてます。
リョウは去年から自主的にこの活動に参加してくれていて、平たく言うと常に「心を整えている」選手。「やっぱりこの大舞台でやってくれる男だよな」と納得しました。
(それにしても勝負強い)
試合は雨足が強くなる中、割り切りながら後半も追加点を重ね4-0の完勝。
初戦にして複数得点で無失点、メンバーも入れ替えながら理想的なスタートを切ることができました。
そしてこのトーナメントの特徴は、翌日に2回戦があること。
2回戦で戦うことになる試合(山梨学院大学ペガサス対房総ローヴァーズ木更津)を撮影していた別働隊と合流し、すぐに夜のMTGに向けて準備を開始しました。
(試合は4-1で山梨学院ペガサスが勝利)
ますさんの意向で、MTGまでに選手たちに試合を見てもらい自分たちでディスカッションさせたいとのことだったので、まずは軽量の映像ファイルを限定公開でアップし、チームのLINEに共有。
同時に、事前に作っていたスカウティング資料・映像と照らし合わせ、この日の試合との相違点を確認。
MTGではますさんが話す想定だったので、ますさんが到着してスカウティングの概要を伝えると衝撃の一言が。
「じゃあ、選手たちにディスカッションしてもらったら翼と(インターンの)大洋で選手たちに資料と映像見せながら話してよ」
いやいや、まじか。笑
この大事なトーナメント2回戦の分析を、本来営業の自分らが話すとは。笑
相手の特徴は極めてシンプルだったのでそこまで難しいものではありませんでしたが、それでも緊張しながら慌ただしく準備。
MTGでは、選手たちで相手の分析と対策をディスカッションをして発表→僕ら分析チームからも映像見せながら発表→最後にますさんが総括するという流れで、少し長くなりながらも無事に遂行しました。
振り返ってみて、2024シーズンのますさんの凄かったところは、「選手やスタッフの出来る限りを引き出していた」ことに尽きるのかなと思います。
このプロセスにおいて、効率的に行うのであれば、選手だけでディスカッションさせたりはせずに、分析チームで作った資料と映像をもとにますさんが発表するだけで良かったと思います。
けど、あえて選手たちだけで話をさせて、且つ分析チームが話をし、その上で監督として話すことで、チーム全体での一体感やモメンタムを生み出すことにも繋がっていたのかなと思います。
それでも、あの場面で僕らに発表まで任せるのはやり過ぎですが。笑
そんな流れで迎えた翌日11月3日(日)の2回戦。山梨学院大学ペガサス戦。
会場は、前日とは打って変わって晴天。前日の水溜まりなども全て捌けており、最高のコンディションでの試合となりました。
試合は、戦前の自分達がペースを握る展開。
分析通り、ロングスローとカウンターだけ警戒すれば何も問題ない、けどだからこそ怖いという相手で、前半に一度ロングスローから決定機を作られたシーンは心臓が止まりかけました。
それでも、それ以外のシーンにおいては選手たちが素晴らしいパフォーマンスで圧倒してくれており、先制点さえ奪えれば全く問題ない展開。
そして迎えた前半アディショナルタイム。前日も2ゴールを決めていたエース・トキ(#9政森)のスーパーゴールで先制。
後半はより相手を圧倒して3点を加点し、終わってみれば2試合連続となる4-0での完勝となりました。
まだ何も決まっていませんでしたが、まずは前年と同じところまで帰ってくることができたと言う安堵。
また、大会前に考えた通り、2試合連続で複数得点の完勝を納めたことで全く浮き足立つことなく、落ち着いて2週間後の決戦に向けて渋谷に帰りました。
過去の自分達へのリベンジ
ここから運命の準決勝・決勝までの2週間は、正直言ってあまり覚えていません。
ただ、一番覚えているのは、あまり昇格後のことを考えないようにしていたことです。
前年は、2回戦を突破した段階で「正直行けるだろう」という空気感がありました。それに伴い、フロント側は昇格後を想定した準備をしていた気がします。
もちろん、事業や昇格のインパクトを最大化させるという意味ではとても重要ですが、なんというか「昇格後のことを考えすぎると負ける気がした」ので、あまりしませんでした。笑
(急にスピリチュアルですみません。笑)
とにかく目の前の準決勝に集中。それだけ。
準決勝のFIFTY CLUBとの試合に向けては、全選手がFIFTYの関東大会1・2回戦の映像を見て、2回戦と同様に選手だけでのMTGを実施。
セットプレーも含めてできる限りの準備をして、適度な緊張感と自信を持って当日を迎えました。
試合は、予想通りCITYがポゼッションでペースを握りながらも、相手は体を張った守備で守りつつ前線の高さとサイドの突破力を生かしたカウンターやセットプレーでゴールを狙ってくるという展開。
まさに前年に敗れたCOEDO KAWAGOEと同じような特徴の相手、同じような試合展開で、「これを乗り越えてこそ昇格があるんだな」と思いながら試合を見ていました。
そして、勝負を分けたのは、前年の自分達が涙を飲んだセットプレーでした。
迎えた後半、ゴール正面からFKの場面。
周到に用意したトリックプレーからまたもやトキが決め、(公式記録)700名が集まった日産フィールド小机は歓喜の渦に包まれました。
その後、「ジャンボ」を要するFIFTYにパワープレーを仕掛けられますが、それでも頼り甲斐しかないディフェンス陣が見事に守り切り、1-0で勝利。
会心の勝利で、ただただ選手たちと現場のスタッフが頼もしかったです。
ついに、重く、重かった準決勝の壁を突破し、例年であればこれで昇格決定でしたが、今回はJFLの関東圏のクラブに降格可能性があったため、この時点での決定はお預けに。
そして、運命の決勝戦は翌日。
相手は、リーグ最終戦で敗れたライバル・EDO ALL UNITED。
世界中の「舞台は整った」界の中でもトップ10入りするくらい「舞台は整って」いました。
勝てば文句なしで昇格が決まるこの試合。
このシチュエーションで、引退を決めていたまーさん(#4三原選手)やシュウ(#11河西選手)をスタメンに抜擢するますさんは流石としか言いようがありませんでした。
試合は皆さんご存知の通り(?)、そのシュウが先制ゴールを決め、さらにリーグ最終戦後に涙したキャプテン・ツッチー(#40土田)が追加点。
1点を返されたものの、見事2-1で勝利してリベンジ、そして悲願の関東昇格を決めることができました。
前だけを向き続けた10年
昇格が決まってからのしばらくは、本当に夢の中にいるようでした。
その日の夜に、スポンサーとして応援してくださる「東京基地」さんの奢りでビールファイト、そして祝勝会を渋谷で開催。
ビールファイトがこんなに楽しいものだと思わず、あまりにも楽しくてドン引きしました。笑
僕個人としては10年間、特に東京都リーグ1部に昇格し、SHIBUYA CITY FCに改称してからの4年間のあらゆる記憶がフラッシュバックして、この夜はたぶん人生で一番泣きました。笑
前年の準決勝で負けた後に感情を捨てたので、その分も溢れ出てきたのかなと思います。
しれっと公開しているアニュアルレポート(年間のレポート)に記載していますが、実はSHIBUYA CITY FCは2021年から2023年は3年連続で赤字でした。
それも、ちょっと赤字ではなく結構な赤字です。数百万とかではなく数千万。売上1億程度なのに。シンプルに力不足です。
2024年はやっと久しぶりに黒字が見えてきた中で、ここで上がれるかどうかで全部変わるなと思っていました。
また、トップチームの選手・スタッフも、正直言って今回で上がれていなかったらかなりきつかったと思います。
ますさんは昇格後のサンクスパーティーで「上がれなかったらこのチーム崩壊していたんじゃないか」と冗談混じりに言っていましたが、冗談ではなく本気で崩壊していた可能性があります。
そのくらい、全員が命を削ってこの昇格のために全てを賭けていました。
2025シーズンから初のJ1昇格を決めたファジアーノ岡山の木村オーナーの記事にこんなことが書いてあって、今回の僕らもまさに同じだったなと思います。
この10年、どんなに苦しくても、どんなに挫けても、前だけを向き続けてきました。前だけを向いていれば、必ず神様が味方してくれるんだなと実感しました。
そして、あらゆる挫折を乗り越えてきたからこそ、組織としても、僕個人としても強くなることができた気がします。
次の10年に向けて
僕は、20代を全てこのSHIBUYA CITY FCに捧げてきました。
そして、その20代の10年間で関東リーグを卒業することができました。
ここから先の10年間、僕は30代という仕事をする上で一番脂の乗った時期を過ごすことになります。
この10年間は営業を軸にしながら「やれることはなんでもやる」スタンスで仕事をしてきましたが、きっとこれから先、より多くの、より面白いメンバーが集まってくるであろうこのSHIBUYA CITY FCで自分がどんな役割を果たしていくのか。
一番大きな挑戦は、昇格するためにチームを強くするのはもちろんのこと、安定した事業基盤を作ること、そしてソフトだけでなくハードを整えること。
自分なりにあらゆる「点」を仕込んできたし、それらをつなげて「線」そして「立体」にするイメージも少しずつ見えてきたので、愚直に、誠実に、真っ直ぐ次の10年も進んでいければと思います。
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長々と書きすぎて、もはやここまで読んでいる人は数人程度だと思いますが、最後に宣伝です!笑
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