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うっくつ、と書いて気づいたこと。/閃きと社会性

ティータイムが好きだ。
暖かいお茶を飲むのもさることながら、飲みながら人の書いた文章に触れ、そこから自分の中で何かが触発されるのが、好きだ。
もっと言えば、触発された一連のアイディア、つまり閃きを、何らかの形で形にするのに集中している・・・・・・時間が、こよなく愛しい。

そういう時間を、毎日持ちたいと思っている。

反対に、それが持てないと、正直苦しい。
精神の便秘になり、それは心身症というか、しっかり身体にも反映される。

閃かない毎日も、閃いてもそれをアウトプットできない毎日も、苦しい。

さて、自分は社会性が未発達だ、と思う。
必死に社会人のフリをしているけれど、所詮フリ。どうも要領を得ない。擬態。地はミドリイロなのに、グレーの壁にしがみついて身を護ろうとしている、カメレオンみたい。(それすらも地、になれる人とならざるを得ない人もいて、もう自分はグレーだって思ってる人もたくさんいるけど、わたしはいずれにもなれない)

この疑似・社会性の発揮は、閃きの降臨と表現とトレードオフだ。

こうしてnoteに表現しているような内容を私が考えているなんて、職場の人は思いもつかないだろう、と思う。

そんな深い内容を話しているいとまは多忙な毎日の勤務時間にはない。現代のお勤めなんてそんなもんなのかな、と正直なところよもや諦め加減。

じゃあ、他の人はどこでこの折り合いをつけているのだろう、という、かねてよりの大きなハテナマークが、社会性を普段以上に求められた怒涛のウィークデーを終えようとしている金曜の夜、苦しいくらいに焦点を失った心身を携えながら、改めて頭の上にぽかんと浮かんでいる。

鬱屈。

鬱蒼として屈折するように入り組んで、どうにもこうにもほどけない、出口の見えない、樹幹に閉ざされた森林の暗い地面を思わせる言葉。

素直に伸びることのできた樹林であれば――つまり、その木の性質に合わせて間伐が適切になされ、人の手の入った樹林であれば、鬱蒼とすることはないはずだ。

逆に言えば、曲がって生えるというのは、無理な力がかかっていたり、そのように生えるしか生育しつづける術がなかったり、という環境要因の負荷がかかっている、ということだろう。

その負荷を、取り除きたいところ。環境要因を、伸ばしたい木・・・・・・の特性を把握して、調整してやらなくっちゃ、いけないってことだ。

わたしのなかで、伸ばしたい木ってどれだ?
さいきん走ることにばかり夢中で、からだの声どころじゃないから、改めて考えてみないといけないな。

そもそも延ばしたい木が、時代のマジョリティの要請に合ってると、楽なんだけれども、そうじゃないから苦労してきた、という側面もあって。
よもやこの歳にもなって、模索し続けているとは。

四十不惑って言ったの誰だ?


何はともあれ、今週、よくぞ乗り切った……!


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すかーれっと/Scarlett
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