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心の真実をこの手足で・与謝野晶子とゆかしき外国語

心の真実をこの手足で

真実は美しい人魚だと
かの文人は言い当てり。

人魚 潜在の海に潜りて
その尾を僅かに覗かせむ

開白以来とめどなく
夜と昼間の境目に。

我はその両眼を凝らし
水面の奥に姿を探さむ

能う限りこの手を伸ばし
海水に濡れた御手を取らむ

そして彼女の輪郭を
この世の触れ得る領域に
敢えて具現たらしめむ

2s.o
27may2020


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 「まんが世界の偉人」シリーズを制覇する勢いで読んでいる長女が、分散登校で「与謝野晶子」を借りて来た。分散登校も二日目、図書室が解禁になったと嬉々としていた。

 久しぶりに二人の時間ができたので、お茶をしながら、彼女の本を借りて読んでみることにした。

 感動した。時代の求めるものと自分とのギャップに臆さずに、彼女の真実――心を表現してみせた。例え批判されようとも、文壇で堂々と反論した。

 もう一つ心打たれたのは、晶子が源氏物語を独学で読んだことである。「何度も何度も読んでいると、だんだんと意味が分かるようになってくる」

 これには、外国語を身に付ける姿勢として、とても共感できるし勇気づけられるのである。

 古典の授業に苦戦した記憶にそぐわぬように、私たち現代人にとって源氏物語は外国語に近いが、明治維新から数十年の晶子の生きた時代にもまた、源氏物語は外国語であっただろう。事実、晶子は後年当時の「現代語訳」を完成させている。

 そんな外国語を興味を持って「何度も読む」ことによって、だんだんと登場人物の言わんとしていることがわかって来る。彼らの思想や言語様式に、こちらから、愛を持って寄り添うことによって。

 外国語も、そんなものだと思うのだ。

 「ゆかし」は古典で「知りたいと興味を抱かせるさま」だったが、外国語を通して触れる世界の「ゆかしさ」が、私たちにその言語を理解し、我も口にしてみたいと思わせる。

 だから、受験科目として知識検査の材料にするのはもったいない、と心から思っている。

 言語はゆかしさで身に付けられる、と信じて、わたしはまだ甘い蜜月を味わっている。

 

Main bahut khushi hui learning Hindi, yet the progress is sweetly so slow💛

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