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詩のことば、理性のことば~福島・常磐線・青春18きっぷ――人生のトンネルをくぐったことのある全ての人へ~
詞のことば、理性のことば
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noteをお読みになってくださっているあなた、こんにちは。
知未(さとみ)です。
アメブロをお読みになってくださっているあなた、こんにちは。
スカーレットです。
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【詞のことば】
エミリー・ディキンソンは
"My life closed before its close"
「わたしの生は二度閉じた 命が尽きる前に」
という一節を残しましたが、
わたしの人生も幾度となく閉じてきました。
その原因が、【広汎性発達障害という脳の特性によるもの】と【社会の理解と受け皿】との相互作用によるものであったことが、30半ばの令和黎明期の今になって、ようやくはっきりとわかってきました。少なくとも、原因の半分くらいは、それによるものだったのだろうということが。
自分を知り、真に冷静な視点で自分の半生を振り返ることができている今、長いトンネルを必死で走ってきて、ようやく光が見えてきたような気持ちでいます。
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17歳ではじめのトンネルの闇を目にしました。それは常磐線のトンネルのように断続的で、抜けたと思っては、またやってくる。短いのやら長いのやらが、やってくる。
ところで私は、東北は森の都・仙台の出身です。学生で関東に出てきた私は、青春18きっぷ愛用者になった。主に常磐線。愛しの、2013年の3.11から2020年の冬の今のこんなにも長い間、人災によって断絶された常磐線。
里帰りでは必ず、黄色のバックパックに当地のものを詰め込めるだけ詰め込んで、心躍らせて関東と東北を行き来した。車窓から望む奥羽山脈の稜線や海岸線の地形は、私の旅の原風景になった。
中でも鈍行のワンマンカ―になる福島沿岸部が好きだったんだ。原ノ町の手前、たったの二車両になって、無人駅をいくつか経過する。通りすがりの旅人の私も、その車内にいると、田舎独特のゆったりとした日常に入り込む感じがした。あのおじいちゃんおばあちゃんや、はしゃぐ女子高生やのんびりとした学生達は、今ごろどうしているのだろう。
福島の沿岸部はまた、平たんではないようで、次々と短いトンネルがやってきては、その合間に一瞬、海を覗かせる。トンネル、海、トンネル、海、トンネル、海…抜けたときのあの海の近さが、とても美しかった。
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わたしの心象風景もまた、トンネルと海の繰り返しをなぞった。
トンネルが長く出口が見えない暗闇が深ければ深いほど、その後に見える海は妖しくも狂気に美しかった。
その美しさに魅せられて、脱・トンネルの胸に沸いた思いを赤のノートに書きつけ始めた。一たび閉じた人生が春に臨んで花開くときの、ゆっくりでいてかつ希望を讃えたふわりとした感じ。生きていることに花丸オーケーが出せる感じ。その、一寸前の闇との落差。書かずにはいられなかった。
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この17のときから、わたしは「詩のことば」を書いてきました。トンネルを抜けた時の印象と心象風景を重ねたものを、暗と明という落差が水力発電するエネルギーをもってして、書き出した。
それらを表現せずに、どうしていられただろう?
わたしはこうして、「詩のことば」を得た。
人生が閉じては、開き、開いては、書き、閉じて、を繰り返してきた。
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【理性のことば】
「理性のことば」は時に浮つく。表層を舐めて大事なことを表現しそびれる。やっつけ仕事のプレゼンテーションや、ザ・社会的なやりとり。それらに代表される表面的なやりとりは、往々にしてわたしを疲弊させてきた。
本質を突かないコミュニケーションに、何の意味があるだろう?
かくいうわたしも役割としての「私」を演じようと必死にがんばってきた。なぜ?――それが常套手段だと思っていたから。それを網羅しなければ、言い換えれば「ちゃんとした社会人」や「きちんとした人間」になれないと駄目なんだ、と、強迫観念のように信じていたから。だって、周りの大勢は常にそう言ってきたし、言い続けているじゃないか?少なくともそちらが多数派にみえる。
しかしそういう方向でがんればがんばるほど、言葉は上滑りし、舌はもつれた。ソツのない「できる人」に憧れたが、それは自分ではなかった。悲しくも残念ながら、「できる人」的なシステム構築では生れついていなかった。
それでも「できる人」信仰は教育課程でもみっちり教習され身に染みていた。だから、「できる人」に求められる要件と思しきことができるよう、頑張った。できないから睡眠時間を削ってでも、頑張った。皮肉なもので、自分のできないこと(当時は「やればできる」と信じていたのだが。)に注力すると、それに精いっぱいになって、でもできないからぼろが出る。もう、ぼろぼろ出る(涙笑)。忘れ物MAX、言いまつがいMAX、しかも普通の人並みに普通のことができないというパラドックス!
めっちゃ頑張ってるのに!
やればできる、がんばればできるって言ったの誰だ?
できないわたしがわるいの?努力が足りないの?わたしがだらしないの?
発達障害について学んだ。能力の凸凹のある人のサバイバル原則は、苦手なところを伸ばすことではないという一節が、刺さった。能力の凸凹のある人は、得意なところで苦手をカバーできればいい。苦手を必要最小限・日常生活に困らない位にカバーして、得意なところをもっと伸ばせばいい。
目から鱗だった。この考え方はゆっくりと、しかしじわじわと確実に、わたしを助けた。
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わたしは普通のシャカイジンにならなくっていい
わたしは書類が訂正印だらけの金魚鉢になってもいい。それはだれか得意な人にやってもらえばいい。
わたしは忘れ物をしてもいい。人に助けを求めれば、たいていは誰かが快く助けてくれる。
わたしは英文法の解説が下手でもいい。感覚にうったえ、興味を喚起して言語学習のモチベーションをより多くの生徒に高めることができることが、実は英語教育のエッセンスなんじゃないか?(説明はもちろん必要だから努力するけど、私ががんばるより生徒を信頼してもっと委ねていい)
わたしは必要なことを書き、話すことができればいい。
わたしは普通のシャカイジンにならなくっていい
もしかしたら名誉おかーさんになってもいいのかもしれない
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この一種の達観というか悟りというか、自分の特性に対する理解のおかげで、一般的に期待されているような、それでいて自分に合わない役割を演じようとして、可哀そうな道化になる瞬間は大分少なくなってきた。自分が無理して自分ではない何かになろうとしている時が、セルフモニタリングできるようになってきた。「あ!わたし今わたしじゃないな。」そしてそういうときは大抵、ものごとは上手く運ばない。自分という資源が上手く活用できていないから。
つまり、自分の得意と苦手を理解することで、役割としての「私」を無理して演じるのではなく、素の自分を出せるようになってきたのだ。いかなる場面でも。
「素の自分」――「ありのままの」でも「自分らしく」でも「自然な自分」でも表現の仕方はいろいろあるが――は、ひとことで言ってしまえば簡単だ。でも案外それは巧妙にかつ重層的に隠されていることが多い。少なくとも、わたしの場合はそうだった。
「困難に直面して初めて自分というものが分かるのですね」
は、愛読書『ベルサイユのばら』(池田利代子 著)で革命の奔流にまさに今飲み込まんとしているアントワネットがフェルゼンに送った手紙の一節だが、直面してきた困難が自分の輪郭によりふさわしい磨きをかけてくれる面が確かにある。波にさらされて丸みを帯びた流木のように。温室育ち・純粋培養のトマトの木は、その環境下から放り出されてどうして生きていけよう?どうせなら砂漠でも熱帯でも、たわわに実をならす草木になりたい。花を咲かせて。
今思うのは、期待された(と思われている)役割を演じようと空回りする「ことば上滑り族]も、過去のわたしと同じように、何に照準を合わせてコミュニケーションのdiction(ディクション。その場にふさわしい声色や、語の丁寧さを含む場のコンテクストに相応しいspeech・話し方)を選択したらいいのかが分からずに、当惑しているのだろうということだ。
わたしの場合は特に、自分を含め3人以上のコミュニケーションの場だと、どうリアクションするのが相応しいのかよく読めず、大抵は当惑している。今でも。
例えば公式な会議の場でも、一人ひとりが適度な間を置いて交互に発言し、議論が一本の線になっていれば問題なくついていける。しかしながら、議論が交錯し、ある人がある人の発言に被さるように発言するような進行の上手くいっていない会議などでは、正直迷子になってしまう。結局何が決まって、何をこの後行動に移すべきなのか?残念ながら我が国の国家も何やってんのかよく分からないことが多い(これは私に限らないはずだが)。
上述したのはフォーマルな例だが、インフォーマルな場はもっと難しいような気がする。空気読めないのだ、要するに。表面的な空気は読めない。でも、深いとこの空気は感じとってしまう不思議。人としての尊厳に対する蔑みや、反対の安心感は、常識のフィルターなき子どもの直感並みに汲み上げて勝手に傷ついたり、喜んだりする。それは人生を歩んでくる上でその都度トラウマになったし、だけどその異物が醸成された真珠はやはり美しい。
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ルサンチマンを追いかけて、大学まで進んだように思う。ルサンチマンとは、恐らく社会学の用語で、自分の人生における憤りのこと。それを健全なかたちで昇華することで、人類の学問や芸術が成り立ってきた。
「どうしてわたしは不条理に直面するのだろう?」
この問いかけの答えを、「こんな私に誰がした?」と社会の側に求めるのが社会学であり、一人ひとりのこころに求めるのが心理学。
学部では教育社会学を専攻したと言っていいだろう。大学は私にとって、きちんと本質を捉える「理性のことば」を獲得するゆりかごだった。提出物に完璧を求めすぎるあまりどうしても手が付けられず未提出だったり、出せても〆切を過ぎたりするお世辞にも優秀な学生ではなかったが、少なくとも、その獲得を試みたのは確か。お世話になった忍耐強い恩師達には本当に感謝している。
「理性のことば」でも、本質を表現できるのだ。書き言葉でできたのだから、話し言葉でも、できるはずだ。今はゆっくりでも、そう遠くないいつか、コンサイスに淀みなくわたしのこころを「理性のことば」で放つことができるようになる。
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まとめ
立春に新しい歳を迎えるにあたり、「詞のことば」と「理性のことば」を統合したいと思い、今回の記事を書くことに決めていました。それは女性性と男性性の統合でもあり、わたしにとってとても意味のあることでした。
これまでずっと、「詞のことば」はわたしのものでした。自分の心を昇華するために書いていた。でも気づいてしまった。「詞のことば」を理解できる人が、わたし以外にもこの世界に一定数存在するということを。そして、わたしのことばはその人たちの救いになるのかもしれないということを。
誰よりも10代の自分に向けて、わたしはこのマガジンを始めました。
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一方で、「詞のことば」を理解しない人にも、わたしのような欠損と尖ったところを併せ持つ、器用さと不器用さが共存する種族がいることを知ってもらいたいと思っています。
そのためにどのようなプラットフォームで発信していくのが良いのか。当面の結論はこうです。
● noteでは、主に「詞のことば」を発信します。それをできる限り多くの人に理解できるよう、「理性のことば」で橋を架けてお伝えします。発達障害への気づき、ライフハックもこちらかな。【発達凸凹同胞と理解を試みる方向け】
● アメブロ 「Scarlett's Mother Goose」では、「理性のことば」と「詞のことば」の中間で、女性性満開で好きホーダイ発信します。趣味であり仕事の言語学習(人に英語を教えて、自分でヒンディー語などを学んでいます)に関する気づき、個人レッスンの告知等はこちらでやっていきます。※見たくない人は見なくて結構ですので、文句は言わないでくださいね♡ 常識は一人ひとり異なります。
noteとアメブロはこれまで重複発信もありましたが、今後それぞれ独立させますので、言語学習や好きなこと満開のスカーレットが気になる方は、アメブロの方も読者登録ORブックマークをぜひお願いします♡
● YouTube「satomi-channnel ja.」(日本語版)と「satomi-channnel en.」(英語版)をやっています。2020年1月からボリウッド映画(愛しいインド映画♡の一ジャンルです)を通したヒンディー語の自学を始め、その経過を1~2週間隔で報告しています。わたしの英語教育のモットー「言語は歌と場面で右脳で最も効果的に獲得することができる♪」の実証実験デス。そこから得られた、言語学習で大事なこと――姿勢や心の持ち方、を発信しています。
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以上なり!ここまで読んでくださったあなた、相当な忍耐力ですね~。今週もきっと、いいことありますよ♡ きっと、うまくいく。オールイーズウェール。
世界がもう一歩楽園に近づきますように
2020年立春の願いをこめて
3月14日の常磐線再開を、心から待ちわびて。
09Feb2020
Satomi Scarlett
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