「教育を受けられる幸せ」

中学の思春期のど真ん中、授業で扱った内容がそうさせたのか、私は前の席に座っていた友人に、だしぬけにこう聞いた。

「きたさん、今、幸せ?」

――まさに中二、の時の出来事。

かえってきたのは、満面の笑みで

「うん、幸せだよ❤」だった。

その答えはティーンエイジャーの私に一連の思考を巡らせた。

――いろいろ悩んだりもしてるけど、「きたさん」の言うとおり、私も幸せかもしれない。衣食住に困ってない。でも、なんで幸せなんだろう?

――テレビや歴史なんかでは、児童労働や戦時下で「がっこう」に行けない子どももいるぞ。それに比べたら自分はこうして「きょういく」を受け、人間の歴史や現代直面している課題について考え、自分の将来を考えるリソースと猶予を享受している。

そうか、私は「教育を受けているから幸せ」なんだ…!

そんなことを素直に思えた十代から一点、わが子の不登校や自分自身の特性による二次障害をくぐってきて、「よくも、学校め」と思うようになった側面がある。それは、紋切型の価値観で幼かった自分が生まれ持っていた「在り方」そのものを疎外された経験が、辛くも学校を通して、それもいくつも、もたらされたからだ。この歳にもなって、そいつをぬぐおうとしてもぬぐい切れずにいて、ああ、と思う。

タイムアップなので、結論を。

きっと、教育を受けていることが幸せ、というよりも、労働を免除され色んな知識に触れられるモラトリアムの期間が保障されていることが幸せ、ということだったのだろう。それは教育ど同義であるようにも聞こえるけれど、実際ちがっていて、そこに必ずしも公権力が関わっている必要がないってことだ。

公権力が人間性のない教師によって行使されると、子どもの人格を阻害するような事象がとっても簡単に起きうる。

知識へのアクセス、が個人でも容易になった現在、たぶん「がっこう」で「きょういく」を受ける必要は著しく低下している。

寄りそう大人は必要で、それを何て呼べばいいのかは分からないけれど、とにかく「先生」である必要はなくて、ファシリテーターに近い役割と心持ちがいいんじゃないか。

自戒をこめながら、今日も行ってきます…!

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すかーれっと/Scarlett
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