生命力に辟易する私たち
近所の農協で買った菊芋を冷暗所と言えるところに保管して、気づくと1週間経っていた。
暗がりの奥から取り出した透明なビニル袋を見て、どきっとした。
表面のぽこぽこしたところからうっそうと芽が出て、ビニル袋の内側をうねうねうねっていたのだ!
それは醜悪な感じがして辟易する自分を認め、次に「これはジャガイモと一緒で毒性があるのかな…食すにはやっぱ取らなきゃかな」という思考がすぐさま私の手を、「菊芋の芽取り」に追い立てた。
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菊芋の芽をせっせと、まるで敵にするように剥きながら、菊芋の生命力を食べるのだという実感が沸き、それは喜びに変わった。そして、一瞬前の自分の感覚を振り返った。
うねる触手のように芽吹いていた菊芋は、生命力そのものであった。
色も食用の生成り色から、紫がかった茶色にふてぶてしさを湛えていた。
わたしは、その生命力に辟易したのだ。
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我々はスーパーの棚に並んだお行儀の良い野菜に慣れている。
食べ物はパッケージングされ、食されるべく飼い慣らされた。
我々は、そんな彼らの手慣づけられた様に、安心するようになってはいまいか?
ちょうど、闇夜に電灯があるのと同じように、我々は明を手放しに享受するが、いつの間にやら暗は得てして受け入れ難い。
同様に、「生」は祝われるけれど、「性」や「死」は忌まわれる。
「はじまり」は良くて、蓮が根を伸ばす「泥」は汚く、「おわり」は触れてはいけないことのよう。
どうして花を愛でられようか?
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芽は台所のシンクに小さな山をいくつか成し、それだけで壮観を呈した。
「菊芋」とラベリングされていたのと同じ形になったその根菜は、素揚げにされて日曜の昼の食卓に並んだ。
ごちそうさま。
「はじまり」も「経過」も「おわり」も清濁合わせ呑んで、人生を線ではなく「今」を中心とした広がりとして見るための本を、翻訳しています。
それはタイムマネジメントの本のようでありながら、実は人生哲学に近い。
自分の創造性を糧に夢を生きるためのマインドを再プログラムするような101章。
どうぞ、ご参加下さい。