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【女子の発達障害のうつ】二次障害なのか、気分の自然な変調なのか

 17歳ぐらいで生理が安定してから、気分が季節的に落ち込むのを繰り返してきました。この記事では、発達障害女子のうつがどこからきて、どう処すと良いのか、私自身の17年の経験から、書きたいと思います。

冬の黒い犬

 それは冬にやってきて、私を捕まえてしまう。途方もなく全てが億劫になって、それはものごとを人並みのスピードでこなして人並みに人の輪に入っていけない自分に対する嫌気が高じたようでもあり、でもそれ以上の重力をもって私を地に這いつくばらせた。人に会いたくない。どこにも行きたくない。そんな自分が嫌で見たくなくて何かを口に入れずにはいられなかった。

 18歳、それが何かを多分知りたくて、心理学と障害学と教育学のやれる学部に、運良く内申書と小論文と面接で入り込んだ。、あの時の不安定な心理状態、勉強はろくに手がついていなかったから、一般入試だったら入れなかっただろう。1学期の基礎講義、心理学でゲーテが季節的な鬱持ちでそいつを「冬の黒い犬」と呼んでいたのを知り、ああ、私にも犬が来る、と不思議に納得した。私に噛み付き、馬乗りになり、私を動けなくする大きくて黒い犬。

発達障害グレー、という要因

 大学に行ってからもその犬は毎冬、私のドアを叩いた。まだそれがどうしてもたらされるのか、どうしたら対策できるのか、何も分からなかったが、ネットで情報収集をしてどうやら冬季うつ病というのに近いなと思っていた。高緯度地域に交換留学した一年は冬の下降幅が有意に(といっても主観的にだけれど)大きかった。その土地の日照時間の少なさと症状が比例していると考えると、冬季うつはそれほど的外れではないのではないか、と思えた。

 同時に、自分の特性的な面がADHDや当時差別化されていたADDにぴったり当てはまるな、というのも薄々感じていたけれど、それに対応する「術」(すべ)の情報が、今に比べてまったくといって流通していなかった。どこの門を叩けば、より良いやり方や支援に結びつくのか、が、全然、分からなかった。

 ともあれ、これら自分の特性と日照条件などの環境要因が結びついて、私に黒い犬を運んでくるような気がしながら、私はそれから10年以上過ごした。

女性である、という要因

 30代になって、女性性を大事に、とか女性性を解放して、という考えに触れるようになった。現代教育の意図の体現よろしく、何でも理性で詰めることが最終的には必要だと思っていた私(つまり頭でっかちってこと!)にとって、それは新鮮だった。

 そうして、ふと、気づいたのです。この気分の変調は、もしかしたら女性としてフツーの振れ幅なんじゃないか、と。波がないのが当然なんじゃなくて、波があるのが当然で、その変調を異端視して受け入れられなかっただけなんじゃないか、と。

 そう言ってしまうにはしんどすぎる感覚を、過去の私は経験していたと記憶しているから、そう言ってしまうのは申し訳ない、ような気もします。だけれど、落ち込む自分を「病気」として自分と切り離して何か治療しなくてはならないものとみなすよりも、そういう自分も許容し、それなりに、過ごすことができた方が楽だ、ということに気づいたのです。

 欠陥も含めて私は美しい、と思うのは発達障害を持つ人のサバイバルマインドセットだと思うのだけれど、それと同様に、女子としては、アップダウンのダウンも含めて私は美しく、私である、という心の持ちようが、とても、わたしたちを楽にする、と思うのです。

最後に

 もちろん、すべてを「一人の人間が抱え得る当然の落差」として放置すべきという訳ではなく、そこには当然医療的介入が必要な場合もあると思います。全てがある一人の人の「心の持ちよう」とする考え方は、差別や社会階層の保持構造を正当化してしまうような気がして、それは支持しません。

 けれども、あるものを無いことにしない――言い換えると「自分に生じていることを自分という人間の持つ振れ幅の一部として受け入れる」ということができると、だいぶ、楽になれるような気がするのです。

 実際、昨年発達障害について学んだことで、自分を客観視してそういうものか、と認められるようになったことが、私をすごく楽にしている――というのを、ここ1年、黒い犬の襲来なく、17歳以降初めて、過ごしている(!!)自分にふと気づき、思ったので、この記事を書きました。

 最後に、男の人はどうなのか?――男性でないので本当のところはわかりませんが、男性も、究極のところ同じなんじゃないかな。弱さを認める男性は、とても強いなー、と思います。

 17歳から倍の歳を重ねたわたしの、きれいごとでした。


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