もういない人に憧れてしまったわたしたちは
私には好きな物事、人があまりにも多い。具体的に挙げるにはあまりにも多すぎる。
音楽が好きだ、好きなアーティストを挙げてしまえばキリがない。絵を描くことも、本を読むことも、可愛い女の子も、拙いながらに楽器を奏でることも文章を書くことも、ネットサーフィンをすることも大好きだ。
その中でも特に好きなのは多数の憧れている人たちの痕跡を隈なく手繰ることかもしれない。憧れている人のことをスマホの画面が手垢で埋め尽くされるまで調べたり、その人が書いたものを読んだり、書いてまとめてみたり。そうしていることで自分の思考や雰囲気が少しでもその人に寄っていくんじゃないかという淡い期待に呑まれる感覚、それが大好きなのである。(もちろん、気力や体力が十分にある時でないとそんなことも思えないのだが……。)
(私の認識上、憧れの人と推しはうまく説明できないが違うような気がしている。前者は自分にとっての神様で、自分の全てがその人になってしまってもいいと純粋に狂っていられるような存在で。後者は……あれ、もしかして同じなのか?いやでも前者とは程度が違うのか?、もう少しフラットな“好き”なのであって憧れとは違うのか、などと考えていたら自分でもよくわからなくなってしまったのでここからは、『憧れの人=推し』と表現することにしようと思う。俗っぽい言い方になるけれどきっとその方が多くの人に伝わるだろうし。)
非常に残念なことに私の推しは大体、もう活動していなかったりこの世にすらいないことだってあったりする。それも頻繁に。一体何の因果なのだろうか。
何かのきっかけで推しを知る、だんだんと調べていくうちにどんどんとのめりこむ。そしてその人がもう活動していない、いないと知ると当たり前だががっかりした気分になる。推しを純粋に追いかけていられると思っていた身としては不本意だ。それと同時に、どうしてか少しだけホッとしたようなそんな感覚を感じる。生きることに苦しみしか見いだせない私だからそう思うのであろうか。わからない。
基本的に多くの人が言う“推し”というものはどんな次元であれ私たちと同じ時間軸の中で共に生きているように思う。年代設定だとかそういうことではなく、「明日新刊出るんだよね」、「この間新しいビジュが出たんだよね」、「昨日の〇〇が〜」だとかのこれである。
だが私を含めた一定数にとってはそのような事が無いのだ。詳しくなっていくにつれて、狂ったように信じ込むにつれて、「自分がこの先生きていても彼、彼女の新しい出来事が記憶されることは無いんだな。」そんな気持ちになるのだ。私たちは過去を遡らなければならない。手間がかかるが検索エンジンの後ろの方から見ていかなければならない。過去にしか推しは存在していないのだ。それは推しがまだ活動を辞めただけにしても、生きていなかったとしてもほとんどそこに差は無い。と私は思う。
さて、そんなわたしは、わたしたちはどうすればよいのか。
どうすればいいかなんてあまりに漠然としているが、
どうしても届きたい、そんな光がもうこの世でリアルタイムで追えないとしたら?
今生きていて、活動している推しなのであれば「推しは推せる時に推せ」 この言葉に限るであろう。そうでないわたしは?
もう居ないという事実を受け入れていくしかないのだろうか。
考えても全く分からなかった。
後を追おうとも思った。同じ場所に行けばわかるんじゃないかって。
必死に考え続け、私にこれがわかる日が来るのかすらわからないのだ。でもそれでいいとさえ思う。考えても分からないことを考えるのが好きだから。
このまま惰性で過ごしていたら見つかるのかもしれないし。
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