酒井, 真人, 1898-?||サカイ, マヒト の没年は1974年 (附 『蠍』創刊号書誌情報)
酒井眞人の没年
先日、大宅壮一文庫にて、泉健太郎や梢朱之介が参加している同人誌『蠍』創刊号を閲覧したところ、巻頭に酒井眞人が紹介文を寄せていてちょっと驚いた。といって、酒井について詳しいわけでもないので、軽く調べてみると、コトバンク(20世紀日本人名事典)やJapanknowledge(日本近代文学大事典)では没年不詳とされていた(なおWikipediaは未立項)。
せっかくなのでデジコレで調べてみると、後半生は長野県で英語教師をしており、おそらく1974年に病死していたことが分かった。
・昭和四十九(1974)年11月10日印刷発行の『白梅 : 創立五十年史記念号』 (長野女子高等学校、5頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12057948/1/37?keyword=%E9%85%92%E4%BA%95 )において、「故酒井真人先生」とされている。
・保昌正夫『近代日本文学随処随考』(双文社出版、1982年、64頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12458747/1/35 )に「酒井真人(一八九八─一九七四)」とある。
・川口松太郎『忘れ得ぬ人忘れ得ぬこと』(1983年、講談社、100頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12492760/1/54 )に、川口と今東光との会話で、今「(・・・)酒井真人という変り者もいたな」川口「あれは信州の長野だ。病気になって寝ていたがつい最近になって死んだ」とある。
以上を総合すると、1974年の11月10日以前に病死したと考えられる。つまり未だ著作権保護期間ということになる。NDL等で調べればよりちゃんとした情報源を得られるだろう。
酒井眞人「一言」
著作権保護期間内とはいえ、今のところ『蠍』や酒井のこの文章が復刊・復刻されるとは考えられず、またごく短文でもあるので、全文を引いておこう。
一言 酒井眞人
武內[仁雄=梢朱之介]君と酒井[清一=『蠍』の編輯兼発行者]君が度々見えて、私に何か紹介文見たいなものを書いてくれといふ。私は困つた。お角違ひの氣がするからである。が、同人諸氏の熱心振りを見ては、いくら逃げ腰の早い私でも、つい何年か前の、みぢめな私自身の姿が想ひ浮ばれて來て、むげにも斷り兼ねるのである。といつて今こゝで「まアしつかり勉强し給へ」などと、世上一帶式に先輩ぶつて見榮を切る程、私は私自身に値してゐないのだ。幸ひ私も、これから大いに心を籠めて精進したいと思つてゐる矢先だから、一つ諸氏と一緖に道連れになつて、少しでもいゝものを書くやう努力しよう。
讀者諸君よ、こゝの同人は、蠍の觸鬚のやうに敏感な感覺は持つてゐても、しかし蠍の、いや文壇ずれした文學靑年の、毒鉤は、塵程も持つてゐないことをどうぞ何より安心して下さい。
『蠍』創刊号書誌情報
目次
一言 酒井眞人(一)
蝦蟇 梢朱之介(三)
蟲 市村四十平(一六)
白雨小情 蟹安六(三二)
化猫の話 泉健太郞(三八)
五月 白谷多門(四八)
奥付
大正十四年五月廿六日印刷
大正十四年六月一日發行
東京市本鄕區追分町三十一番地第三富士見軒內
編輯兼發行者 酒井淸一
東京市本鄕區追分町二十七番地
印刷者 谷村忠三郞
東京市本鄕區追分町二十七番地
印刷所 本鄕活版所
東京市本鄕區本鄕四丁目
發賣元 文武堂書店
振替東京九五二七
編輯上ノ用件ハ編輯者宛に乞フ
同人(裏表紙に記載)
泉健太郞
市村四十平
白谷多門
小片禾夫
大町三味吉
蟹安六
小松周
梢朱之介
坂西新