『運も実力のうち 能力主義は正義か?』(マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳/早川書房)

「運も実力のうち」という言葉は、今までの人生の中で何回も聞いてきた。そしこの言葉に対して、大きな疑問を持つことも無く、確かにそうだなぁと思って生活してきたように思う。

六歳の時、私は人生初めての受験をした。

受験の前日、私は高熱を出した。その前々日は保育園の遠足で、動物園に行った。はしゃぎ過ぎたのだと思う。

重たい足取りで受験会場に向かい、自分自身が「大切な日」の前日に楽しんでしまったことが、とても悪いことだったと強く後悔したことを、ぼんやりと覚えている。

受験、というものが当時の私にとってどういうものかは分からなかった。ただ、母親に「受験したい?」と聞かれて、「うん!やりたい!」と言うと、母が少し嬉しそうだったから、そう言い続けていた。また、保育園の友達の中で、「受験するの?」と聞かれて、「うん!」と答えることには、なんだか特別な味があった。

ただ、当時の私にとっては、机の上でドリルをやるよりも、泥団子をピカピカにすることや、シロツメグサでかんむりを作ることの方が、何倍も魅力的だった。

椅子の上でじっとしていると、体中がむずむずして泣きそうになるのを感じながら、それでもきっと母が笑顔になるのであれば、「受験」はとても大切なことなのだと思って、「やりたい」と言い続けていた。

結果は「不合格」。

同じ保育園からは5人くらいが受けて、1人だけが受かった。受かった友達の名前は、きょうこちゃん。お医者さんのパパと看護師さんのママがいて、日光に当たったらすぐに真っ赤になってしまうような、血管が透けて見えてしまうような真っ白な肌をしていて、睫毛が長くて、茶色い透き通る目の綺麗な子だった。きょうこちゃんとすれ違うと良い匂いがいつもした。運動会の時、きょうこちゃんが転んだ時、きょうこちゃんのぱぱもままもお仕事でいなかった。きょうこちゃんのままはきょうこちゃんにそっくりで、とっても綺麗だった。ぱぱのことは一度も観たことが無かった。

私の母はきょうこちゃんをよく褒めていた。それがとても羨ましくて、でもきょうこちゃんみたいになりたくて、私は知らない間に、ずーっときょうこちゃんのことばかりをみるようになっていたように思う。

とても昔の記憶のはずなのに、今こうして「受験」について振り返ってみると、びっくりするくらいはっきりと、15年も前の記憶が蘇ってくることが、とても不思議だ。それくらい、私にとっての「失敗」の記憶が、濃く心に染み付いているからだと思う。

「遊んで食べて寝てちゃダメ?盗みも殺しも詐欺もしてないよ。何が悪いの?」

さくらももこさんの漫画で、コジコジがテストでテストを全て間違えて名前すらを間違え、-5点を取って先生に怒られた時に言った台詞だ。受験に落ちてすぐの私が、この言葉に出会っていたら、動物園を楽しんだことを悪いことだと思うことはなかったんじゃないかなと思う。だが、今、自分の言葉としてこの言葉を言えるかというと、そうでは無い。目の前にテストがあれば努力しなければと思うし、そうしない自分は愚かだと感じてしまう。それは他者に対しても同様に感じるだろう。

母は本来、とても勉強が好きで、自分自身学びたい人だったのだと思う。だが、母のお父さんはギャンブルとアルコール依存症、母のお母さんは精神病を患っていて、母の幼少期は施設で過ごしており、そんな中で自分の学びたいことを素直に口に出すことはできなかったのかもしれない。母は理系の短大に、資格取得をして卒業後は決まった就職先に進むという条件で一切の借金をせずに進学した。

母がよく、「この世界には、頭になる人と、使われる人がいて、使われる人はもうぼろぼろになるから、使う方にならなきゃだめなの。それには、勉強して、使う側に行かないと。」と言っていたのを覚えている。それを言っている時の母のことを、私は怖いな感じていた。

下記は本の中で引用されていたマーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺される少し前に、ストライキ中の清掃作業員に呼びかけた言葉である。

「私たちの社会がもし存続できるなら、いずれ、清掃作業員に敬意を払うようになるでしょう。考えてみれば、私たちが出すごみを集める人は、医者とおなじくらい大切です。なぜなら、彼が仕事をしなければ、病気が蔓延するからです。どんな労働にも尊厳があります。」



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