
ピアノを持っているすべての方に伝えたいことと、調律師のジレンマ
今年の関東の冬の乾燥はピアノにとって“災害”と言えるレベルでした。3月になりましたが、まだまだ乾燥の季節は続きます。
家の中でも湿度30%はあたりまえ。実際にピアノのコンディションも例年より確実に狂いや故障が多く、大掛かりな修理が必要だったり取り返しのつかないレベルの故障にも遭遇します。でもその被害は持ち主の手で防げたものです。加湿器さえ置いていれば...

正直「だからあんなに言ったのに〜」という気持ちと「もっと上手く導けたのかも...」と「でもこれ以上こちらができることはなかったよな」の3つの感情がせめぎ合い。ひとことで言えば悔しいです。
繰り返しになりますが、ただ加湿器さえ置いてさえいれば防げた故障ばかりです。
加湿器を使わないと本当にマズイのになかなか伝わらない。勝手に置いてくるわけにもいかないし。これは同業者と話していてもよく話題に上がります。
もはや加湿器は特別なものでは無い
よく言われるのが「うちは趣味で弾いているだけなので…」
確かにピアノのためにそこまでするのはガチ勢だけでは?…と思ってしまうのかもしれません。でも実際はもはや加湿器なしではピアノの最低限が保てなくなって来ていると言っても大げさではありません。
カラカラの部屋にピアノがある光景は、僕には買ってきたアイスを冷凍庫に入れずテーブルに放置しているのと同じように見えます。
乾燥に対して調律師側ができることはひとつも無い
乾燥に対して調律師は無力です。
乾燥でずれる分を見越した調整しておくことはできます。
でもこれはただ事前に反対側にずらして余裕を持たせているだけで、乾燥から受けるダメージ量は全く変わっていません。むしろ不必要にずらす分負担は大きくなります。
乾燥で壊れたところを直すこともできます。
でも深刻な乾燥ダメージはたとえ表面上は直っても、無かったことにはなりません。これも一度溶けたアイスと似ています。
メンテナンスで乾燥から守ることはできないんです。唯一できるのは持ち主の方に乾燥対策をしてもらうよう促すこと。この一点だけです。
この他にもたくさんの誤解があり積極的に解いていかないといけないし、伝え方の工夫の余地はまだあるとは思いたいです。でも伝え方ではどうしようもない、調律師の行動のせいで伝わってない部分があると思っています。
調律師の善意が起こしているかもしれない問題
「痛みを伴わない教訓には意義がない」
好きな漫画の第1話、最初のページに書かれた言葉です。
たとえば不注意で車をちょっと擦ってしまうことってあります。
一瞬へこみますが…すぐに「ああでもこれで気が引き締まって、大きな事故が防げてむしろ良かった。もっと気をつけよう」と思えます。幸い今まで誰かや自分が怪我をする事故は起こっていません。
何回「安全運転を」と言われるより、凄惨な事故の映像を見せられるよりも、一度自分の車を擦ることが何十倍もの教訓になります。違反の罰則システムも、それより大きな事故に繋がらないための痛みを伴った教訓です。
ピアノの乾燥によるダメージも最初はリカバリーできる小さな故障からはじまることが多いです。ネジがいつもより緩んでいるとか。隙間が少し広がっているとか。接着剤が弱くなっているところが1箇所だけあるとか。
ここで持ち主の方が危険なことに気づいてくれて、これ以上大きなダメージになる前に対策をすれば問題は無いのです。
ただ、ここでそれを阻む問題が。
僕はそうなんですが、これらの小さな故障ぐらいであれば調律のついでに無料で直してしまうんですよね。それは善意が半分、そこをどうにかしないとその後の作業が進めづらくなると言う現実的な問題が半分。多くの同業者さんもそうなのではないでしょうか。
もちろん作業後には、ここを直したこと、それが起こっている原因は乾燥であること、加湿器で対策をしたほうが良いことはお客さんにしっかりと伝えます。
でもそれってお客さんの「痛み」にはなっていないんだと思います。
せっかくの小さな痛み
ちょっとしたことだとしても本来は起こらないはずのイレギュラーな故障なわけですから、そのままだったら弾きづらいし、直すのであればお金がかかる。どちらも“小さな痛み”になるはずです。それゆえに実感を持った教訓になり、行動(加湿器の購入)につながります。
そのチャンスを調律師が見えなくしてしまうことで、お客さんが痛みに気づけなくなっている。いくら説明はされてもお客さんとしては何も失っていない(ように感じる)わけなので対岸の火事です。
そして無料では直せないレベルの痛みになったときにお客さんは初めて実感します。そのときにはもう手遅れ。調律師の善意からの行動が「痛みを伴わない教訓には意義がない」を起こしてしまっている側面は大いにあると思います。
加湿器の重要性を説いていくのは引き続き大事です。でも啓蒙には限界があるし時間もかかります。業界がこのあたりのことに自覚的になっておくのはとても大事なのではと思っています。
でも本来、調律師は弾き手にピアノの痛みを見せないようにする仕事でもあります。「ピアノは任せて弾くことだけ楽しんでください!」とハッピーに終われればどれだけ良いか。そんなジレンマ。
この漫画の言葉はその後「人は何かの犠牲なしには何も得ることはできないのだから」と続きます。
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