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私たちはみんな、叱られたいのかもしれない

最近、X(旧Twitter)で「執事喫茶」が話題だ。

執事喫茶とは、その名の通り執事が給仕してくれるコンセプトカフェ。
ここでは、女性客なら「お嬢様」、男性客なら「お坊ちゃま」という設定で、外見・言葉遣い・所作まで執事らしく洗練されたスタッフに接客してもらえる……のが一般的な執事喫茶、だと思う。
(私自身は興味がありつつ機会がなく、実際に行けたことがない)

話題になっているツイートは、客の「お嬢様・お坊ちゃま」設定をハイクオリティで実現する執事の接客体験談が主だ。
まるで本当に子どもの頃から面倒を見てくれているかのように、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたり、時には苦言を呈してくれたり、しみじみと思い出話を語ってくれたりする、らしい。

解像度が高すぎる。行ってみたい。
偽りの記憶がよみがえってきそうだ。

そんな素敵な非日常の体験談をみながら、ふと思ったことがある。
それは、私たちはきっと「愛ある叱り」を嬉しく思う、ということだ。

執事喫茶でいうと、「お嬢様~~~!!!またこんな無茶をして!」とか。「お嬢様ともあろうお方が、こんなことを……!」とか。
そんな叱り方だ。

こちらを大事に思っているとわかる叱りには、信頼感が寄せられるし、嬉しいものだと思う。
まあ実際、日常生活での小言には煩わしく感じることが多いと思うけれど。
それが愛情だとわかるようになった今、少しは成長しているのかなと思う。

よく言われることだけど、特に大人になった今、誰かに叱ってもらえることも欠点を指摘してもらえることも、そうそうない。
どうでもいい相手が、だらしなくしていたって外道な行いをしていたって、どうでもいいからだ。叱るほうが面倒で、わざわざ叱る義理もない。

私が思う「愛」の形のひとつに、
「相手がこの先もずっと、自ら進めるように働きかけること」
というのがある。

たとえ自分がそばにいなくなっても、相手の内側でじんわりと長く生き続け、相手を守り支えるような、そんな習慣や知識を伝えること。

親の愛情なんかがわかりやすいと思うけれど、これはパートナーシップを築こうとするなら、誰に対しても実践できると思っている。
というか、私が個人的に「愛するってきっとそういうもの」という考えのもと、パートナーとの関係構築を心がけている。

「叱る」行為も、そんな関わり方のひとつだよなあと、最近になってようやく誰かを愛する試みを始めた私は、改めて思う。
私も執事に呆れ顔で叱られたい。


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