見出し画像

教員を目指す僕の"挫折と決意"


初めましての人は初めまして。
お久しぶりの人は久しぶり。

フィーリングで教育を語る!
つっぴーです👣

中学のころの経験(教員を目指す僕の"原点"|KA💤UKI#教員志望 @教員とタマゴと轍|note)から教師一筋で夢を追ってきた僕は、高校生になり目にしたのは、"毎日の労働に追われながら悩みを抱える教員の姿"と、"夢を持たない学生の姿"でした。

楽しいだけじゃない、教師も生徒も、見えない何かを押し殺して
「誰のために?」
「何のために?」
しているのか分からない教育を当たり前のように行う。
そんな教育環境でした。

僕の経験した当たり前の部活動も教師にとっては負担にもなり、労働環境の問題の一つになっていました。
それから、僕は現代の学校教育の在り方に疑問を持つようになり、子どもの為、先生の為に、学校の教育を変えようとしました。

しかし、当時高校生だった僕の理想は、先生にとってはキレイごと。
本気で相手にしてくれる先生はいませんでした。

何よりも一番、心をえぐられた学年主任からの一言があります。

「あなたはまだ高校生」

この言葉は私の"可能性"を一瞬にして無にした。
そんな感覚があったことを今でも覚えています。
授業も、遊びも、服装も、髪型も、恋愛も、行事も、休日の過ごし方も、部活動も、何もか先生が管理しようとする。

先生は
「あなた達のため」
そう言っていましたが、その先生と生徒の間には一切、"信頼 " という言葉を感じることはできませんでした。
今思い返してみれば受験終了時、先生や学校に感謝する生徒は僕の周りには
ほとんどいなかったと思います。

最後の最後まで僕は、この学校の先生を"信頼"しきれずに卒業しました。

受験合格時に先生に対して
「ざまあみろ」
と心から想い、先生の力を否定しようとしたことは
今の僕とってはありえないことです。

それほど、この学校で積み上げた先生との『 信頼 』 という関係性は狂気に満ち満ちていたと思います。

それでも、僕は教師に"憧れ"を抱いています
それは教師の魅力を知っているからです。
心から " 信頼 "できる教師・大人 がいるからです。

"憧れ"はその在り方で子どもたちの可能性を開放することができるのです。

これらの経験から、僕は教育は"人間の秘める可能性"を開放するもの だと考えています。

そして当時

僕は「人として関われる教師 」になることを決意しました


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?