映画「ラストマイル」を見た話
塚原組・野木亜紀子最新作・音楽得田真裕・シェアードユニバースで超大御所俳優揃い踏み。しかも主演は満島ひかり、脇を固めるのは岡田将生、阿部サダヲ、ディーン・フジオカ。なんだこのオタクが欲しいもの全部乗せ映画は。
正直もはや野木さんの最新作ってだけで劇場に足を運ぶには十分な要素だったけれど、あれよあれよという間に2周目も見にいってしまった。3周目は、現在かなり前向きな方向で検討中である。だってこの映画、たかが2回だけじゃわからないんだもの。
念のため述べておくが、私は何の専門家でもない。この感想も、素人が素人の感想を見たまま書いているに過ぎない。映画を見る多くの層は大概が素人でありリーチの外側にいて、ただそのうちの一人が一丁前に何か形にしたいと思い立ったのみである。
要するに、大した事書いてないから、あんまり真に受けないでね。映画はあなたが感じたことがすべてだよ。
目の付け所がシャープでしょって話
映画本編の核心的な内容に触れる前に、まず外堀から埋めていこうと思う。ラストマイル、流通業界、そう来たかと思った。
この映画はあまりにも特筆すべき点が多いため、来場者が何をきっかけに劇場へ向かったか、その理由は非常に多岐にわたると思うけれど、その中の大半は「シェアード・ユニバース作品だから」「野木亜紀子脚本だから」じゃないかと勝手に思っている。無論、私もその口である。先述の通り最初にエンジンを蒸かすきっかけになったのは、「塚原監督と野木さんで映画!?」である。得田さんが音楽やるのは後から知った。
つまるところ、浅いながらも数個野木脚本作品を見た感じ、私は「映像作品通して社会問題を可視化(便宜上の表現)したい人なのかな〜」と思っていたし、これに関しては今もそこまで印象は変わっていない。
塩漬けにされている社会問題や見えない社会構造を可視化するにあたって映像作品を使うことはとても有効な手段だし、社会問題を円卓上に載せるという意味ではある種正攻法でもある。
だから流通業界の映画を引っ提げて塚原組、引いては脚本家野木亜紀子が『2024年』に銀幕界へ帰ってきたのは「ハ~そこに目をつけるのか~」と脱帽したのだ。公開年が今年だったのすら、感心飛び越えて、最早恐怖である。
それどころか、流通業界をエンタメに昇華するのはあまりに難しい。なぜなら規模がデカすぎる・その割に個々の作業を見るとミクロすぎるので手に余る・登場人物の固定があまりに困難等挙げたらキリがないが、やはり直接的なのは通販が普及して対人のやり取りが極度に減り、その煽りを一番受けている流通業界で人間ドラマは映しにくいという部分な気がする。
それを過労っていう一見直接的にすら思える題材で、ずっとこちらに指をさし続けるラストマイルの秀逸さたるや、開いた口が塞がらない。この辺は後程詳しくしたためることにしよう。
蟻の巣を見ているようだったっていう話
そんな大胆な着眼を踏まえ、そろそろ本編の話に移ろうと思うが、この映画を一言で表現するにはどんな言葉が適切かしばらく考えて、それでも蟻の巣以上の表現が出て来なかった。
小学校の自由研究で5人に1人はやっていたあの蟻の巣観察実験。透明なアクリル板の間に砂を詰め込んで蟻が巣をつくっていく様を総覧できるやつ。この映画を通して、すごくそれを思い出した。
たっぷり2時間通して、今現に形作られている社会構造をボーリング調査したみたいな景色を見せれたように思う。うまく言えない。
かくして、世界は変わらないということ
なんともやるせなくて、それが一層野木節って感じて、良かったなあと思う。「だからって別に世界は大してよくならないよ」というのを突き付けられた気がする。ラストマイルを担っている運送業の人たちの勤務環境は若干改善されてもそれは微々たるものだったし、結局担い手不足は改善していないし、ブラックフライデーは今年も、来年も、その先もやってくるし。
昨今は良くも悪くも電子化が進んで、何でもネット上でやりとりできるようになったけれど、人間が物質的に存在し続ける限り物理的な供給とは切り離せない。食料・被服・外科的な医療・生活必需品諸々、必ず物理的に必要になる。それらを運ぶサプライチェーン(=ハード)がぼろぼろなのにソフトだけ先走ってしまっている現状なんて、正直な話誰もがわかっている。宅急便の時間指定がその時間帯に来なくなったのも今に始まった話ではないわけで、2024年問題も散々ニュースでやっているわけで。それでも誰も行動に起こさない、何が出来るのかわからない。
一旦現実のことは棚に上げるけれど、作中最後、エレナは五十嵐に「誰も何もしなかった」と言った。でもさ、一体五十嵐に何が出来たんだ? 五十嵐の不作為が責められるのなら、世の中何百何千何億と毎秒起きている「ネットショッピング」も「宅急便の利用」も、そういう何気なく行われる作為行為すら責められてしかるべきじゃないのか? でもそれを止める術なんて、誰も持っていないでしょう。あー、虚しいな。だからって何もしなくていいなんて断言する度胸もない。
映画パンフレットの野木さんのインタビューを読んで思ったんだけど、もうとっくにトラック親子がどうにかできる世界ではなくなっていて、エレナや五十嵐のような人たちが動くことでしか、状況を変えることはできなくなっているっていうのが、皮肉にも極めて的を得ている。
ホワイトパス=ホワイトカラーとブルーパス=ブルーカラーの対比も、ああそういうことかと思うと同時に、何とも虚しくやるせなくなった。お願いだから皆パンフレット買って。読んで。
彼女はなぜ起爆スイッチを押したのか?
エレナが唱えた「12個爆弾があると宣言して11個しか仕込まなければ、永遠にデリファスは存在しない爆弾を探し続けることになる」という仮説、初めて見たときに「あったまいい~~~~~~♪ 本当だ!」と思ったし、これ以上ない案なのに、筧まりかはなんで全て使ったのかな、と映画見た直後からずっと思ってて。しばらく考えてようやっと、彼女が爆弾を最初に使ったのは自分が贖うためだったのかと結論に辿り着いた。勝手にそう弾き出しただけだが、私はこれですごく納得がいったのでそういうことにしておく。
筧がアメリカのエレナに直談判しに行ったときに言っていたこと、「もし彼が飛び降りたのが私のせいなら、私は罪を贖います」「でもそうじゃなかったら、世界は罪を贖ってくれるんですか?」
結局誰が悪かったのかなんて、筧まりかの立場からじゃわからない。それは、見ていた私たちもそうだけど。だって、山崎は何も語ることが出来ないから、当人の行動の原因を客観で決めるのはとても難しい。
だから、筧は初めに自分で贖うことを選んだのかなと思った。あの訴えを起こさないという念書も本当だったのかわからないし(十中八九ぱちもんだろうが)。
筧はデリファスに何を求めていたんだろう。山崎佑が飛び降りた原因を究明すること? 厳密にはデリファスの過失を認めること? でも事実業務中の事故で労災認定はおりてる。デリファスがしたことの告発をしようとしていた……って三澄先生が言っていた気がするし、彼女がアメリカにいるエレナのもとまで直談判に行ったのも、作中時間軸でもアメリカ本社に脅迫文を送っていたのも踏まえると、筧は世界に片棒を担いでほしかったのかなあ。
結婚に悩んでいたっていう同僚の証言はどれだけ筧を追い込んだのか、想像するに余りある。例え今後デリファスが山崎に強いた超過労働が世間に露呈したとしても、いつか山崎が目が覚めた時に喜んでくれるとは限らないし、目が覚めて自分が横にいることでさらに苦しんでしまったら? なんて考えてしまう。誰も否定してくれないどころか、もう一つ可能性のある責任の所在が山崎のことをのらりくらりと黙殺する。挙句の果てには、彼の両親からも「あんたのせいで息子はこうなったんだ」と怒鳴られては、自信なんてなくなって当然だ。
だったら、彼が目を覚ましたとき、彼が苦しむすべての要素がこの世界から消えていればいいのにって、そう考えて筧はまず自分が贖ったんじゃないか。……と、思った。それ以上を筧から読み解けるほど、彼女自身も多くを語っていないのがまた、苦しいところだ。
欲深きことのなんと素晴らしきかな
警察を呼びに行こうとする孔を止めたり、怨嗟を聞かれて「恨まれてますよ! 世界中のライバル企業から! でも彼らがやるならサイバーテロ。小包爆弾なんて」と言ってのけたり、「全部」ほしいと言ったり、随所に見える舟渡エレナの欲がなおこの映画のコントラストを上げていたように思う。それっぽい言い回しにしているが、細部を解説しろと言われたら私も出来ないので勘弁してほしい。
そんな彼女が時折見せる瞬間的な感情の爆発は、満島ひかりにスタンディングオベーションを送りたい。私この満島ひかりの瞬発的感情の噴出本当に大好きで~……。
孔に問い詰められてから爆弾のスイッチを押してしまうまでの間、どんどんエレナの人間性が見えてきて、あれだけ序盤ヤバい人感を醸し出していたのに、打って変わってあんなものを見せられては、画面に食い入るしかない。
「好きでもない男と死にたくない」も「僕も、こんなところで上司と死にたくありません」「ああもういいから触んないで!」ここ、ここ…………。
この声の荒げ方が、死にたくなくて仕方がない人の叫び方で、そこにエレナの欲が見えて良かった。
もっというと、これを通して志摩一未の異常性がよく分かった。
ま、一旦この話はね、置いておきます。
梨本孔さんについて
梨本孔というキャラクターが存外刺さって心臓から抜けないのはこの際どうでもいい。この場では、梨本孔さんの人間性や思考についてのみ語ろうと思う。余計なことは、書かない。絶対。
作中、彼について語られることはそう多くない。日本の悪いところを煮詰めたようなところで業務外の仕事を回されながらホワイトハッカーをしていた。そこに比べたらここは天国。今の生活が維持できればそれでいい。
孔が言っていたことに嘘はないんだろうと思う。楽しくなさそうとよく言われるが、楽しく仕事をしている。これも本当。
エレナは孔のことを「若いのに無欲か」と評したけど、十分欲がある人に見える。現状維持って、すごく欲深いことだ。ここから滑り落ちたくない一心で、隠してた特技も開示して犯人探しをした。エレナを問い詰めるときは声を荒げすらした。それだけ孔にとって、デリファスや今の環境は壊れると困る環境だったのかなと思う。
以上です。裁判長。
正常性バイアス、あるいは恒常性バイアス
五十嵐の中に巣食っているのは、きっとこれだったんだろう。
山崎と同じように床に寝そべった五十嵐が、「俺に何が出来たって言うんだ」と頭を抱えたあのシーンだけで、彼が当時どれだけ自分に重ねて息を飲んだのか容易に想像できてしまった。
とある問題の中に自分も主体として取り込むのはとても勇気のいることだ。いつでも俯瞰していたいし、達観していたい。まさかそんな状況に陥るだなんて、「あいつだからああなった」と特異的な理由をつけなくちゃと躍起になる。そんな五十嵐の人間的な脆さが見えた瞬間で、すごく良かった。
そしてこれらは等しく私たちにも言えることなのだろう。山崎と、五十嵐と、何が違う? きっと何も違ってなどいない。悲しいかな、ね。
わからないままって話【ここから考察】
これがずっと引っ掛かっている。孔はエレナに、山崎の飛び降りの原因を証明できるかもしれないと言った。その後、前任者から引き継がれてきたものとロッカーの中を見せに行って「2.7m/s 70kg⇀ 0」の落書きを見せる。証拠かもしれないから誰も消せなかった。意味は分かっても、行動は起こせなかった。
……証拠って本当にこれだったのか?
エレナが初めて西武蔵野LCセンターへやってきたとき、「壊れてる」と言ったロッカーがアップになった瞬間、まるで鍵を刺し違え続けたかのような傷が映っていたけど、あれが山崎のロッカーじゃ……ないのか?
2.7m/s⇀は山崎の飛び降りを目撃した同僚の緑の服を着た女性社員のロッカーじゃないのか?
エレナが「ずっと探してた答えはロッカーの中にあったのに!」と言ったのは何のことだったんだ?
最後のシーン、孔は何を思ったんだ? 五十嵐は何を探していた?
などと悶々と考えているが、結論が出ない。この映画は時系列の変遷があまりにシームレスなので、ひとつひとつのシーンがどの時間軸を切り取ったものなのかが判然としないため、円盤を見ないことにはこの辺の答えに辿り着けない。
開かずの扉となっている山崎のロッカーに超過勤務の証拠があって、山崎は同僚に何か伝えたくて同僚のロッカーにあの書き置きを残したんじゃ? だってあのロッカー群、エレナが最初に開けたときは鍵を使っていなかったし、あの開かないロッカーはただ鍵がかかっているだけで、チームマネージャーのポジションでは預かり知らない、センター長しか知らない場所に鍵が保管されていて、それをずっと隠していただけ、では? それかあの数式が鍵の在処だった、とか。
だからエレナは「あなたの番が来たってこと」と孔に鍵を渡したのでは? 鍵を使って山崎のロッカーの中を見て、それを踏まえて2.7m/s~を見たら、何か気付くことがあったんじゃないか?
とかも考えたが、パンフレットを読んだ感じそういうものでもなさそうだ。あの落書きの「0」の部分も、普通0あんな書き方しないだろ~空欄とかじゃないの? と思っているけど思っているだけなので、特に進捗はない。オフィシャルブックを買うか、考察動画を見るか。かなり難しいことを問われている。いや、前者は十中八九買う。
細部まで拘りのきいた作品だからすべてに気付きたいけれど、とても難しい。2周目ですら「うわ、これってこういうことだったのか」だとか「注意してみていればわかったのに」ということがボロボロ出てきた。なんて奥深い映画なんだ。
皆まで言わないラストマイル
最後に、この作品の恐ろしいところについて書き起こしてから終わろうと思う。
2時間映画館の座席に金縛りにあったみたいに張り付いて画面の中の出来事を見続けて思ったのは、「誰も何も明言してくれない」ということだった。
山崎が飛び降りたのは、自殺だったのかもしれない。けれど実際のところはわからない。本人が明言してくれないから。
五十嵐に何ができたのか。同じレールの上にいるエレナも、答えを教えてはくれない。
今こんなにも流通業界の末端で疲弊が蔓延しているのはなぜか。どこで違えたのか、わからない。
もともと映像作品にしろ、静止画、絵画、俳諧、散文、何事も皆まで言わず余白を残し読み手に解釈の裁量を与えるのは、黄金比的なやり方ではある。しかし、ラストマイルに関しては、この明言を避けることによって、ずっと見る側を指さし糾弾し続けているように錯覚してしまうのだ。
社会問題というのは往々にして、耳を塞いでいる人間に限ってその問題を強く認識しているものである。もともとクリティカルヒットする層はとっくに歪みに気付いているのだ。
映画館という閉鎖的でよほどのことがない限り席を立たない環境で、まざまざとそれを見せつけられ、「それで、あなたはどうなの」と問われているような気がした。
耳を塞いでも無駄だもの、それが映画館で見るということだから。
荷物を届ける最後の区間、ラストマイル。
この映画から委ねられてしまったなあ。
私の番が、来たってことか。