青識亜論がもたらした物 ~「対話不可能な社会」~
この件については・・・
この件については言及しないでおこうと思っていた。
この件について言及するなら青識亜論さんを批判する事になるが、批判した所で青識亜論さんには届かないのではないかと考えていたからだ。
だが、私と同じ様な事を青識亜論さんに対して感じている人がいる事を知った。
その人がnote記事を書いていたからだ。
私が感銘を受けた記事というのがこちら。
直後に、上記の記事と同じ様な事を記事にした人が現れた。
それがこちらだ。
上記の二つの記事を読んで、私も記事を書く事にした。
2021年11月5日(金)
2021年11月5日(金)の朝、NHKの「NHK NEWS おはよう日本」に菱山南帆子さんが出ていた。
以前にも、下記の記事の様にNHKのニュースに出ていた事があるが。
今回は「ネット上での(フェミニストに対する)誹謗中傷」というテーマで、番組の内容も完全に、フェミニスト達の「私達は(誹謗中傷の)被害者である」という言い分をそのまま流す内容だった。
この11月5日(金)より、遡る事2日前と3日前の2021年11月2日(火)・11月3日(水)には石川優実さんがNHK教育(Eテレ)の「ハートネットTV」という番組に出ていた。(下記記事参照)
更には、2021年11月11日(木)の「ニュースウオッチ9」(21時からのニュース)では、上記のフェミニスト達と繋がりのある学生の活動が特集で取り上げられていた。
最近、フェミニスト達及びフェミニスト達の主張がNHKで好意的に取り上げられる事が増えている。
何故この様な流れが発生しているのか元を辿った時、私は、「この流れを作った責任は青識亜論さんに有る」と言わざるを得なくなっていると感じた。
青識亜論と石川優実
反フェミ(アンチフェミニスト)として活動している人の中で、石川優実さんを知らない人はいないだろう。
公開討論会「これフェミ」
2019年11月に、「これからのフェミニズムについて考える」(略称:これフェミ)という、青識亜論さんと石川優実さんの公開討論会が行われた。
公開討論会の最後で「また、こういう形で対談したいですね」というニュアンスの事を言った石川優実さんが、その数日後に手の平を返して、「私は「これからのフェミニズムについて考える」という公開討論会の場で、青識亜論さんからハラスメントをされた」と表明した。
石川優実さんの自業自得な所が無いとは言えないが、この手の平返しが原因で、反フェミから石川優実さんへの攻撃(批判)が激化した。
こちらの動画を観て欲しい。
「女は嘘をついているという自覚無く、嘘をつく」という事を説明している動画だ。
こうした「女は嘘をついているという自覚無く、嘘をつく」は何故発生するのか、理由は簡単だ。「その時(その場)では言語化できなかったけれど、後々になってその時の事を思い出したら不快と思える点があった」という場合に、「不快だった」を増幅させて、「女は嘘をついているという自覚無く、嘘をつく」に至る
公開討論会の場で何が有ったのか、その公開討論会に行かなかった私には解らない。
だが、行った人が上げているレポート記事等を読むと、「青識亜論さんが石川優実さんを自論・自説で(物理的にではなく、討論という場だからできる手段で)ぶん殴った」という印象を受けざるを得ない。
討論だから当たり前と思う人もいるかも知れないが「討論で女を(自論・自説で)殴る人間はいずれ、本当に女性を殴る様になる」と私は考える。「本を焼く人は、いずれ人を焼く様になる」と同じで。
(参考:「これフェミ」レポート)
「これフェミ」の司会をしていた人のレポート
「これフェミ」観覧者のレポート
何故、石川優実さんが、その場でではなく数日後に手の平を返したのか、その理由は簡単で、石川優実さんにとって「これフェミ」という場が「その時(その場)では言語化できなかったけれど、後々になってその時の事を思い出したら不快と思える点があった」という形で終了した(しかもその不快の原因を与えたのは討論相手であった青識亜論さんだった)からだ。
1回目の「これフェミ」は接待に徹するべきだった
青識亜論さんは良く「対話が大事」というが、本当に「対話が大事」と思っているなら「これフェミ」を石川優実さんに絶対に不快感を与えない形で終了させなければならなかった。
特に、2回目・3回目と、この公開討論会を続けていきたいと思っていたのならば、1回目は「接待になっても良い」から石川優実さんに青識亜論さんが論破されたという形で終わらせておくべきだった。
それ(接待)が出来なかった結果、冒頭で紹介した二つの記事の内、ヒトシンカさんが書いている記事で下記の様に指摘されている(下記引用中、太字で強調している部分は、私がヒトシンカさんの意見に賛同できている部分です)。
石川優実を再度呼べない「これフェミ」に意味はない
1回目の「これフェミ」後、石川優実や、石川優実と深い交友関係にある者をゲストとして呼ぶ事ができなくなり、「我々に加害している立ち位置の人ではない、別領域のフェミニストを探して来て成立させているだけのイベント」である「これフェミ」に意味が有るかと考えれば、はっきり言えば「意味はない」と私は考える。
はっきり言ってしまえば、2回目以降の「これフェミ」はただのディナーショー(みたいな物)だ。
2回目以降の「これフェミ」に価値が有ったか無かったかで言えば、ディナーショー程度の価値は有ったと思う。
だが、意味が有ったか無かったかで問われれば「石川優実や石川優実と深い交友関係にある者をゲストとして呼ぶ事のできない「これフェミ」に意味はない」というのが私の見解だ。
ヒトシンカさんとクボユウスケの一致する意見
以前、石川優実さんと深い交友関係にあるクボユウスケという人物に「青識亜論さんと公開討論してみて頂けませんか?」と話を振った人がいるという話を聞いた。
その時にクボユウスケという人物は若干意訳になるが下記の様に答えたという。
「あの人(青識亜論)は、本当に議論・討論がしたいと思っている様には見えない。自分が優位に立てる場で異論者を(自論で)殴りつけてスカッとしたい、それも、殴りつけている所を衆目の前に晒してショーにして承認欲求を満たしたいと考えている様に見える。
そういう相手と公開の場で議論・討論する事に意味はない。
この見解に対して違うと主張したいのであれば、青識亜論さんには「これフェミ」の場で石川優実さんを(自論で)殴りつけた事を、公開土下座して、石川さんが納得するまで何度でも謝って欲しい、石川優実さんが青識亜論さんからの謝罪を納得して受け入れた後なら、公開での議論・討論を考える」
先に引用したヒトシンカさんの記事で書かれている事と、フェミニスト側と深い交友関係にあるクボユウスケという人物が、青識亜論さんに対して概ね同じ様な人物評価を下している、この事実を青識亜論さんは捨て置いたり有耶無耶にしてはいけないと私は思う。
「ショーとして相手を論破するだけではいけない」とヒトシンカさんに言った青識亜論さんこそ、1回目の「これフェミ」で「ショーとして相手(石川優実さん)を論破した」上に、その禊(石川優実さんへの謝罪)を済ませていない。
こういう青識亜論さんの態度が誠実と言えるかと言えば、私には、誠実とは思えない。
青識亜論さんは1回目の「これフェミ」以降、「対話が大事」「対話を続けていくべき」と主張する様になった。
しかし、本当に青識亜論さんが「対話が大事」「対話を続けていくべき」と思っているならば、本当に行うべきは2回目・3回目とディナーショーの様に無意味な物となった「これフェミ」という”公開討論会”を続けていく事ではなく、石川優実さんに対する”公開謝罪会”を企画、実行する事だったのではないかと私は思う。
「これフェミ」が対話不可能な状態を生んだ
「これフェミ」後に石川優実さんから行われた青識亜論さんや、その他反フェミ(アンチフェミニスト)に対する拒絶。そして、その後のフェミニストに寄る各種表現コンテンツに対する”表現焼き”。
フェミニストと反フェミ(アンチフェミニスト)を決定的に対話不可能な状態にしたのは1回目の「これフェミ」が原因だと言わざるを得ない。
だが、私は青識亜論さんを評価していた
だが、私はフェミニスト・アンチフェミニスト問題の中に「対話不可能な社会」を生み出した青識亜論さんを評価していた。
それは「青識亜論さんの唱える「対話が大事」という言葉が何処か、常に嘘臭い(から信用できる)」と感じていたからだ。
青識亜論さんが「対話が大事」と言い続ける事で青識亜論さんの周囲には「そうだ、対話が大事なんだ!」「お前ら(フェミニスト達)、俺達と対話しろ!」と対話を求めながらフェミニストを(自分達の考える正論で)殴りつけるアンチフェミニスト達が次第に増加していった。
対話を求め(ながら、自分達の考える正論でフェミニストを殴りつけ)るアンチフェミニストが増えていく事で、フェミニスト・アンチフェミニスト問題を外側から見ている人達には、フェミニスト・アンチフェミニスト問題は、「アンチフェミニスト側は対話を望んでいるのに、フェミニスト側は対話を拒否している」と、世の中に浸透させていったと言える。
表面的には対話を唱えつつ、実際には対話不可能な社会を促進させるという青識亜論さんの戦術は一面で見れば卑怯と言えるかも知れない。
しかし、私は青識亜論さんのこの戦術を肯定するし、フェミニストが私達の好む表現を焼こうとして来るのであれば、私達はフェミニストを焼き尽くし絶滅させてしまえば良いと考えている。
対話を唱える相手に対抗するには、「対話する」か「対話を拒否して潰される」のどちらかしかない。そして、フェミニストは「対話を拒否して潰される」を自ら望んでいるのだから。
2021年11月、情勢は大きく変わった
1回目の「これフェミ」から2年が過ぎた2021年11月、情勢は大きく変わった。
2021年秋頃より、NHKでフェミニストの主張が好意的に取り上げられる事が増えて来た。
それと時を同じくして、2021年9月、千葉県松戸市で活動するVtuberの戸定梨香さんが「全国フェミニスト議員連盟」と言う団体に寄り燃やされる騒動が起き、その騒動に対して、青識亜論さんを中心にした「フェミニスト議連に対する公開質問状」の署名を開始し、開始から1週間で6万以上の署名が集まる事態が発生した。
「NHKでフェミニストの主張が好意的に取り上げられる事が増えて来た」と「戸定梨香を擁護する署名が1週間で6万以上を集めた」という二つの事象、これは一見すると無関係に見えるが、私は、この二つの事象を見た時「分断はここに極まった」と感じた。
この二つの事象は、1回目の「これフェミ」がもたらした対話不可能な社会で、双方が双方のやりたい様に物事を進めて来た結果だ。
そして、1回目の「これフェミ」で青識亜論さんの自論・自説によりぶん殴られた石川優実さんは11月26日、Twitterのアカウントを削除した(11月25日に既にTwitterアカウントを削除していたとの情報もある)。
青識亜論の役目の終了
1回目の「これフェミ」のゲストに石川優実さんを招いた事で、青識亜論さんと石川優実さんはセットで比較される様になったと私は感じている。
アンチフェミニスト界隈には少なからず、青識亜論さんの事を「対 石川優実さん特効持ちの切り札」と認識していた人もいるのではないだろうか。
正直に言うと、石川優実さんがTwitterを引退した事で、Twitter上に於ける青識亜論さんの役目や存在意義は終わったと私は見ている。
石川優実さんという”表現の自由を守りたい人達から見た場合の悪”がTwitter上に存在したからこそ、青識亜論さんは”表現の自由を守る正義”で居る事が出来た。
しかし、石川優実さんはTwitterを引退した。石川優実さんがTwitterを引退したのには、アンチフェミニストからの批判に耐えきれなくなった等の理由もあるだろう。
では、石川優実さんに対するアンチフェミニストからの批判が激化したのは何故か?-1回目の「これフェミ」後の手の平返しが原因だ。
では、1回目の「これフェミ」後の手の平返しは何故起きたか?-青識亜論さんが、”青識亜論さんの理想とする対話”に固執したからだ。
石川優実さんは自分の意志でTwitterアカウントを削除した。
「自分の意志でTwitterアカウントを削除したのだからアンチフェミニスト達(特に青識亜論さん)に責任はない」という見方も出来るだろう。
しかし、「自分の意志でTwitterアカウントを削除したのだからアンチフェミニスト達に責任はない」を認めてしまうと、これまでフェミニスト達が表現を焼いてきた際、焼かれた表現を出していた人達が批判を受けて”自主的に”取り下げた事例(赤十字と宇崎ちゃんのコラボや、ラブライブとJAのコラボ、戸定梨香さんと千葉県警のコラボ(を千葉県警が取り下げた事例))の際にフェミニスト達が主張していた「表現者が自分の意志で取り下げたのだからフェミニスト達に責任はない」を認めざるを得なくなってしまう。
表現の自由を守ると謳っていたアンチフェミニスト達(特に青識亜論さん)が、石川優実さんという一人の人間から表現の自由を奪ったのだ。
石川優実さんがTwitterを引退したことで、石川優実さんがTwitterを引退して以降の青識亜論さんの正義は空振る形となった。
本来なら、石川優実さんの表現の自由を奪ったという責を、青識亜論さんは問われなければならない立場なのではないだろうか。
石川優実さんがTwitter引退した後の青識亜論さん
石川優実さんがTwitterを引退してから暫くして、青識亜論さんは、下記の記事を出した。
この記事に対する批判が、当記事の冒頭で出している二つの記事だ。
私は、ヒトシンカさんはアンチフェミニストの中では過激な方だと思うし、高橋しょうごさんは胡散臭い印象の人だと思っていた。
どちらもあんまり良い印象ではない。
だが、今回に関しては、この二人が青識亜論さんに向けている批判に賛同せざるを得ない。
民主主義とは相互信用が前提に必須である
高橋しょうごさんの記事で、こう書かれている(下記引用中、太字で強調している部分は、私が高橋しょうごさんの意見に賛同できている部分です)。
高橋しょうごさんは、こういう観点から「青識亜論さんのやっている事は民主主義ではない」と指摘しているが、私はまた、別の視点から「青識亜論さんのやっている事は民主主義ではない」と指摘する。
私は高卒で大学には行っていないので、高橋しょうごさんやヒトシンカさんの様に小難しい事は解らない。
勿論、青識亜論さんが小難しい事を言っている時など「あー、また何か意味解らない事を言ってるなー」と思いながら見ている時も有る。
だが、高校時代、民主主義について習った時に教師が「民主主義とは、敵対する者同士が相互信用(互いに相手を信用している)の関係にある状態に於いて成立する世の中の形」だと言っていたのを覚えている。
青識亜論さんと石川優実さんの間に現在、相互信用が有るだろうか?青識亜論さんは(口では/建前では)「信用している」と言うかも知れない。しかし、石川優実さんは青識亜論さんの事を「信用している」とは、現状では口が裂けても言わないだろう。
青識さんが本当に民主主義的なやり方としてこのやり方を有効な物にしたいなら、青識さんは何よりも先ず、石川優実さんからの信用を得るため、今からでも、どんな手段を使ってでも石川優実さんに頭を下げに行くべきだろう。
しかし、青識亜論さんが自分から石川優実さんに頭を下げに行く事は、これまでもこれからも永遠にしないだろうと私は思っている。
それはつまり、青識亜論さん自身が民主主義を否定しているという事である。
民主主義を否定している人が、幾ら周りの人に「民主的なやり方をしましょう」と言った所で説得力が無い。
少なくとも、私は今回の青識亜論さんの案に説得力や正当性(=正義)を感じなかった。
その理由は突き詰めれば「石川優実さんから表現の自由を奪った人間がどの口で言うか」の一言に尽きる。
「誰が言ったかより、何を言ったか」
青識亜論さんは時折「誰が言っているかより、何を言っているかで見て欲しい」と言う事が有る。
私は「誰が言っているかより、何を言っているかで見て欲しいのであれば、先ず、それを主張している貴方(これを主張しているのが青識亜論さんである場合、青識亜論さん)が、名前を捨てろ」と考えている。
「誰が言っているかより、何を言っているかで見て欲しい」と主張するので有れば、それを主張している本人が名前を捨てないと、その主張に筋が通らないからだ。
詰めて行くと、「青識亜論が言っているから賛同できない(信用できない)」という理由でこの案に賛同できないという人は少なからずいると思う。
冒頭で上げた二つの記事の主、高橋しょうごさんとヒトシンカさんも有る意味ではその(「青識亜論が言っているから賛同できない(信用できない)」の)類だろう。
私も、今回青識亜論さんが行っている提案に対してはそういう(「青識亜論が言っているから賛同できない(信用できない)」の)類だ。
今回の青識亜論さんと同じ事を、「石川優実さんとの友好関係を築こう、青識亜論さんと石川優実さんを和解させよう、と常日頃から尽力していた人物」が言っていれば賛同や信用できたかも知れない。
また、青識亜論さんが「民主的な(穏健な)やり方を」ではなく「フェミニスト達が私達の好む作品を焼いてくるのですから、私達もフェミニスト達を焼きましょう、手加減する必要はありません」と言っていたら、多分私は、青識亜論さんの言葉に普段の行動との差を感じず、説得力や信頼性・(行動との)一貫性を感じ、賛同しただろう。
結論:「言っていることではなく、やっていることがその人の正体」
数年前、あるお寺にこういう張り紙がしてあったという。
私は「言っている事」よりも「やっている事」でその人でその人を見る様にしている。
今回、青識亜論さんが出した記事は「言っている事」(キャンセルカルチャーをキャンセルし、フェミニストを相手にせず、コンテンツを応援しよう)と「やっている事」(石川優実さんのTwitterからの引退を止めもせず、石川優実さんの表現の自由をある意味で奪った)が一致していないと感じた。
ならば、「やっている事」(石川優実さんのTwitterからの引退を止めもせず、石川優実さんの表現の自由をある意味で奪った)こそが青識亜論さんの正体であると私は見ている。
今回、青識亜論さんが記事で書いたやり方を、より多くの人に納得してもらう(言っている事とやっている事を一致させる)ためには、青識亜論さんは「行動を改める(石川優実さんをTwitterから追い出した事の罪を認め懺悔する)」か「青識亜論という名を捨て名無しになる」のどちらかをしなければならないんじゃないかな?と、少なくとも私は思う。