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匂い|ショートショート

 私は奇妙な体験をした。
 
 そうでなければこうして昔のことを思い返す必要はなかったはずだ。

 私が小学生だった頃。学校までは徒歩で通っていた。

 片道で1キロ程度と、それほど遠い距離ではなかった。大した理由もなく友達同士で喧嘩をしたり、知らない人の家からイチジクの実を頂戴したり、石を蹴って車にぶつけてしまったり、道中では様々なことが起こったが、全てを鮮明に思い出せるわけではない。

 映像や音として記憶を辿る人間も多いのかもしれないが、私の場合、どちらかといえば印象に残っているものは匂いだ。

 大型ダンプが激しく出入りしていたコンクリート工場。近くを通ると鼻をつくような匂いがした。
 
 父が仕事で使うスーツやシャツを洗ってくれていたクリーニング屋さん。漏れ出る蒸気からは石油ストーブに似た匂いがした。
 
 そして、何より記憶に残っているのは近所のおばさんが乗っていた古い原付スクーターが通り過ぎた後の匂いだ。

 彼女の原付スクーターが通り過ぎるといつも甘ったるい匂いがした。それはチョコレートのような甘さではなく、一種独特だった。周りの友達はいつも「くさい」といって騒いだ。

 たしかにいい匂いではなかった。だが、不思議と私はその原付スクーターから出される排気ガスの匂いだと思われるものが嫌いになれなかった。おばさんが優しい人だったからかもしれない。

 両親と仲が良く、ときより家を訪ねてきてはお裾分けをくれたおばさん。

 古いトタン屋根の家で猫と2人静かに暮らしていたおばさん。

 帰り道で出会うと、優しく話しかけてくれ、可愛がってくれたおばさん。

 そんなおばさんの家はある日、火事で燃えてしまった。
 
 後に残ったのは真っ黒になったトタン屋根と木材の残骸だけ。

 あの焦げ臭い匂いは強烈だった。

 幸い、おばさんは原付スクーターで出掛けていたので無事だったが、火事の後どこかに引っ越してしまった。

 その時以来、あの甘ったるい匂いと出会うことはなくなった。

 しかし、ついこの間のことだ。私は奇妙な体験をした。

 街中を歩いていると、近所にいたおばさんの原付スクーターが過ぎ去った後の匂いがした。

 歩道を歩いていたので、当然、原付スクーターとすれ違うはずもなく、私はひどく困惑した。

 咄嗟に振り返ってみると、そこには楽しそうに会話をしながら歩く高齢の女性たちがいた。

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