「同じ釜」の大きさを考える
私のシフトは朝10時半から始業。早朝から8時台くらいまでに出勤する人がほとんどなので、あまり多くの人とは出勤時刻がかぶらない。それでもロッカールームでは誰かしらと会う。まずは挨拶をして、業務上しょっちゅう関わる人はその後、今日は暑いだの寒いだの、身支度を整える時間の間で完結するような当たり障りのない無駄話もしたりする。
他の部署であまり業務で関わらないお互い名前すら知らない人たちもいて、その中には挨拶が返ってこない人も多い。同じ部署でも挨拶をしない人がいる。部署は同じでも全く違う業務をしているので、用事がなけりゃ話すこともないから向こうからしてみたら私は部外者と同じなんだろうな。でも、私はなんとなく、同じ建物の中にいて、同じ時間に同じ場所に居合わせたならもうお仲間じゃん、という感覚がある。だって狭ーいロッカールームなんだし。
出勤途中、道をお掃除してくれるおじさんにも、犬を散歩させている見知らぬ人にも私は挨拶をする。仕事終わりに「お疲れ様でした〜」と言いながらそのテンションのまま職場の門を出て、道で見知らぬ人にまで声をかけ「お、お疲れ様でした」と言わせたこともある(驚かせてすみませんでした)。これもまた、同じときに同じ場所に居合わせたから、それだけのことだ。
そもそも挨拶なんて重要か?というご意見もあろう。そんなにいつもいつも機嫌よくしてられっかよ!という声も多く聞く。元気に気持ちよく挨拶せよ、というのは同調圧力ではないかと。まあ、私もルーティーンのように挨拶してるだけで、返ってこなくてもどうでもいいっちゃどうでもいい。ワタシ嫌ワレテルノカシラ...と悩むほど繊細でもない。ただ、ふと考えることがある。挨拶って、”自分が属していると感じる空間の範囲”を表しているんじゃないかって。
「同じ釜の飯を食う」って言葉がある。同じものを食べることによって生まれる共同体の強い絆。昔は否が応でも皆が同じ飯を同じ場所で食べなきゃいけない環境だったんだろうけど、今は好きでもない人とは同じ釜の飯なんて食べなくてもいい時代。職場単位の飲み会や食事会なんてのもあまり歓迎されない。だからこそ「この人たちとなら同じ釜の飯を食ってもいい」って思える、その大切にしたい共同体の大きさの捉え方が人によって違うんじゃないかと感じる。それが挨拶するしないに表れているような気がする。
同じ部署で同じ業務をする人たちとなら食べてもいい。
自分が安心して心を開ける人たちとなら食べてもいい。
自分の得になりそうな人たちとなら食べてもいい。
職場全体で食べてもいい。(→私)
などなど
私の仲間意識が広いのは、その分希薄にしたいからかもしれない。狭いコミュニティは疲れるしめんどくさい。だから大勢になればなるほど、ひとりくらい誰かに気を使うことなく黙々と食べていても目立たないような気がする。...って、これじゃあ同じ釜の飯を食う意味がなくなっちゃうか。でも、もし職場の知らない誰かが不利な立場とか辛い立場に立たされたら、できる限り力になりたいとは思うよ。だって同じ釜の飯を食ってもいいと思える仲間だもん。
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