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『源氏物語』(古文)を読んだときの覚え書き_第46帖『椎本(しひがもと)』
第46帖『椎本(しひがもと)』
八の宮の死後、薫の中将はかつての居室で故人を偲ぶ。巻名はそのときの歌に拠る
《和歌》「立ち寄らむ 陰とたのみし 椎が本 むなしき床に なりにけるかな」(薫の中将)
(出家の暁にはわが師とお頼りしようと思っていた優婆塞の宮はお亡くなりになって、椎の張られたご修行の席も空しい床になってしまったのかな)
※「優婆塞(うばそく)」とは、修行者に奉仕する在俗の信者をいうところから、出家得度しないで修道の生活を行なう人に及ぼしていう
◆薫23歳春~24歳夏◆
<物語の流れ>
右大臣・・・夕霧(ゆふぎきり)
兵部卿の宮・・・匂の宮((にほふのみや)今上帝と明石の中宮との子)
八の宮 →宇治山の阿闍梨の寺に籠もったまま娘二人(大君(おほいぎみ)と中の君(なかのきみ))残して死去
薫の中将(かをるのちゅじゃう)→23歳の秋、中納言(官位三位、近衛府・衛門府・兵衛府の大将)に →生前八の宮は娘のことを託される →大君に、中の君の相手として匂の宮を勧める
<書き出し>
「きさらぎの二十日(はつか)のほどに、兵部卿(ひゃうぶきゃう)の宮、初瀬(はつせ)に詣(まう)でたまふ。古き御願(ぐわん))なりけれど、おぼしも立たで年ごろになりにけるを、宇治のわたりの御中宿(なかやどり)のゆかしさに、多くはもよほされたまへるなるべし。うらめしと言ふ人もありける里の名の、なべてむつましう思さるるゆゑもはかなしや。上達部(かむだちめ)いとあまたつかうまつりたまふ。殿上人(てんじゃうびと)などはさらにもいはず、世に残る人少なうつかうまつれり。」
(二月の二十日ころ、兵部卿の宮(匂宮)は、初瀬の長谷寺に詣でられる。昔立てた願のお札参りのためでしたけれども、お思い立つことなく何年も経ってしまったのを、宇治のあたりに御宿で泊まられたいという心引かれるものに、主な理由として(詣でを)催されたのでしょう。恨めしいという人もあった里の名(宇治=憂し)が、おおよそ親しみ深く思われるというのも取るに足りないことですね。上達部がお供していらっしゃいます。殿上人などは改めて言うに及ばず、世に残るの人は少ない大勢がお供しました。)
※「初瀬」とは、大和(やまと)の国磯城(しき)郡初瀬にある長谷寺のこと
※「べし」は、可能性、当然、推量の助動詞、終止形接続、~であろう、~であるべき、の意
※「上達部(かむだちめ)」は、国政を審議する最上層の貴族、公卿(くぎよう)のこと、大臣、大納言、中納言、参議、及び三位(さんみ)を指す
※「殿上人(てんじゃうびと」は、「殿上の間」に上ることをゆるされた位階四位、五位の一部の人で中級貴族