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ポケットいっぱいのカルチャーたち

霜降り明星のラジオに腰を抜かしてしまった。


ご存じの方も多いと思うが、霜降り明星・せいやが『週刊文春』にスクープされた。

そんな報道を受けた後の最初のラジオ、6月19日の『霜降り明星のANN0』は歴史に残る放送だった。私はこの放送を何回も聴き直してしまった。

『M‐1グランプリ』で着用していた一張羅のスーツを着こみ、まるで掴みどころの無いスピッツの歌詞のように意味の無い言葉を並べていく。時折、せいやが「ゾーン」に入り、その映像記憶力・再現力をいかんなく発揮する時間が挟みこまれる。特に『笑っていいとも!』の最終回を再現する時間は圧巻だった。私がバラエティ番組にのめり込むきっかけであるブログ、「社会人が仕事もそっちのけでTVにRADIO」で何回も読み返したあの光景が鮮明に再現されていた。


せいやはそんな能力を発揮するだけでなく、過去の偉大なカルチャーたちを自由自在に切り貼りしてしまう。その再現力を持ってすれば、コラージュも朝飯前なのだ。巨人師匠の「パンパンやぞ」→『マネーの虎』の「パンパンサラダパン」、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のデロリアンの燃料・プルトニウム→赤プル(赤いプルトニウム)… カルチャーが、“せいやが好きなもの”が 繋がっていく瞬間に、私は感動を覚えてしまった。そういえば、放送後に読んだこの記事が非常に良かった。

この2時間に霜降り明星せいやを構成するもののすべてが詰まっているような気がしてグッときてしまった。“石川晟也の面白いと思うもの”が、ポケットがはち切れんばかりにパンっパンに詰まっていて、たまらない気持ちになってしまったのだ。おびただしい程の引用やパロディが、混然となって一つになったりならなかったりしている。これをポップカルチャーと呼ばずしてなんと呼ぼう。


6月11日の『アメトーーク』の「バラエティ大好き芸人」で、平成ノブシコブシ・徳井が「第七世代」の魅力について語っていた。

徳井:悲しいことですけど、第7世代って呼ばれてるやつらもあと5,6年もしたら今のことはできなくなると思うんですよ。でも、それでいいんですよ。

爆笑問題・太田の「荒れろ!荒れろ!」で喉を痛めながら、中田カウス師匠を召喚して安田記念を走り切るせいやの姿は、まさにそんな刹那的な魅力が詰まっていた。おそらくもう数年もすれば、霜降り明星は次のステージに上がってしまうだろう。深夜ラジオだって続けていない可能性もある。今しか見られないからこそ、目に焼き付けておきたいんだ。


忘れてはいけないのは、粗品の存在だ。粗品は、カピバラも 立川談志も、『ドラえもん』の通常回も 何にも知らない。しかし、この放送では、せいやの繰り広げる 鎮座DOPENESSのフロウにも、仁鶴師匠の『おばちゃんのブルース』にも付いていくことが出来る。それは「お前から聞いたわ」、つまりせいやが粗品に教えているからなのだ。何にも興味を示さない粗品がせいやの好きなものを知ろうとするのは、「せいやをこの世界に誘ったからには、せいやの良さを最大限まで引き出してやりたい」という「最高の相方」としての矜持があるのだと思う。いや、粗品は せいやの「最高の相方」である前に「友達」であるというのが大きいのかもしれない。「友達」だから、翌週は何も無かったかのようにzoomネタを弄って笑えるんだろうね。


勿論、せいやのやったことは決して褒められたことでは無い。リモートで陰部を露出するのは純粋に気持ち悪いし、一歩間違えればアウトだった可能性がある。実際、番組を実質降板させられたり、出演CMが放送中止になっている。

しかし、この2時間の面白さだけはウソではない。槇原敬之の『世界に一つだけの花』が不変の名曲であるように、また清原和博が希代の大打者であるように、演者の性格や素行と作品の評価は切り離されなければならない。この放送が面白いことは何よりの事実なのだ。『爆笑問題カーボーイ』での太田の「美談にするなよ、ただ面白いだけじゃん」という評価が光る。


霜降り明星は我々に見たことのない景色を見せてくれる。彼らがこじ開けた表現の向こう側を見るために、私はこれからも霜降り明星を追いかけ続けていく。


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