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妹たちの国 #パルプアドベントカレンダー2019

1

東の方にどこにも曲がらずに、地平線や水平線を越え、世界の果てまでずっと歩いていって、そのさらに向こう側に行ったところが妹たちの国だという。
 この国には世界中に数多存在する兄姉妹たちの妹を――それも死んでしまった妹だけが集められ、指導者の庇護のもとで暮らすのだという。そのような氷と炎の城壁に守られて、森の中に水銀の川が流れる国が遠い場所に確かにあるのだと聞いた。また私の妹もあるいはそこにいるのかもしれないとも。
 私はそこから妹を連れ戻すことに決めた。もし叶わなければどうやってでも言うことを聞かせるか、さもなければ妹の兄として国に居ついて一緒に果物を貪り食べるのもいいだろう。いずれにしろ私は、必ず、彼女と顔を突き合わせて話をしなければならない。

 とても、とても長い旅路だった。もはやどれほどの歳月が重ねられたのかもわからなくなったころに、私はとうとう例の国の手前にある砂漠まで来た。ここを抜けてしまえばもう一息で彼女に会えるというところまで、ようやく辿り着いたのだ。
 そのあいだにコートは雨雫を吸って砂埃に汚れ、手袋はところどころほつれて、ブーツもすり減ってボロに変わりつつあった。ずっと前に通り過ぎた街で購入したバイクはまだどうにか動いていたが、タイヤの、チェーンが引っ掛かっているあたりから妙な音がずっと鳴り続けている。どうやら旅の終わりが間近なのは私だけではようだった。

 砂漠に入って三度目の夜。丸く膨れた月の下で冷たい空気と一緒に砂を吹き上げさせながら、地平線を目指してバイクを走らせていた。そのあいだ、私はずっと昔のことをあれこれ考えていた。手を繋いだときの彼女の掌の熱さ、洗い髪を乾かした後に梳く楽しみ。解き放たれた魂はどこに行くのか。そしてまだ私たちが幼くて、世界に余分なものがなく、純粋に二人きりで満たされていたころについて。
 そんな風に色んなことを、とりとめとなく思いめぐらせていた。障害物が一切ない、まっすぐな道は、自分の他には誰もいないから考え事をするのにはちょうどよかったのだ。

 どうしてあの子はいつも何も言わずに、私の前からいなくなってしまうのだろう。一度目は進学のときで(すでに家を出て行って二度と戻ってこなかった)、二度目は結婚(どこの馬の骨とも知らない女と三日後に入籍すると知り合いを通して伝えてきた)、おしまいの三度目は……。
 成長するにつれて、彼女は私の言うことをあまり聞かなくなっていった。まるで自分に牙や爪があることに気づいた犬みたいに、どこか相手を下に見るようになったのだ。それが私たちのあいだに不純なものを呼び混み、私と妹を引き離した。そうして最終的には取り返しのつかないくらいほどに彼女を損なったのだろうと思う。ずっと私が傍にいれば、こんなことにはならなかったのに。少なくともあの女とは違って、一人ぼっちでこんな遠いところにはしなかったはずだ。

 そんなことを考え続けていると、ふいに前方にちらっと何かが光るのが見えた。
 それは銀色の鉄骨で組み立てられた小さな塔だった。はじめのうちは電波塔だろうと思っていたのだけれど、距離が縮まるにつれてそれが物見やぐらだというのを理解する。こちらが建物を間近にすると、そのてっぺんに人影がひらめいていたからだ。
 私も物見やぐらの手前でバイクが停まるように、徐々にスピードを落とす。最上階にいた誰かも身を翻し、鳥のように素早く階段を降りていく。そうして車輪が塔の前で停止するころには、すっかり階段を降り切って地上に姿を現している。ここではじめて、私と誰かは相対する格好になった。

 相手は一見して男だか、女だかわからなかった。首筋は両手で掴めそうなくらいに細く、双肩から両腕までを描くシルエットはなだらかで角ばった部分は見当たらない。バイクから腰を上げて隣に並んで立てば、おそらく私と同じくらいか、少し小さい背丈になるように見えた。もしかしたら『妹』たちの国と、何か関りがあるのかもしれない。そうであるのなら、きっと女だろうと思う。
 その何者かは細身の背広を纏って、腰にガンホルダーを巻き付けていた。武器を携帯しているために威圧的には違いなかったけれど、リボンタイのせいか軍人や警官というよりも、学生のように見える。かつての……あの女と同じような、王子様気取りの女生徒に。

 妹たちの国に行くのか? 相手が訊ねてくる。甲高くはない、しかしそれでいてけして低すぎることのない、男女どちらともとれる声質だった。また水の中に溶け込む氷みたいに、自然に頭の中に入り込んでいくような心地よさが、その言葉の中には感じられた。
 そんなものを耳にしながらそうだと答えると、自分は妹たちの国の入国審査官であると相手は言う。どうやらこの物見櫓は検問所であるらしい。
「通行料が必要だ。何か、対価になるものを差し出すように」
 パスポートを見分されたのちに、このような告げられる。早く通り抜けたいので、私はコートの懐から紙幣を適当に出して突き出す。しかし相手は頑として受け取らない。求めているのは、このようなものではないという。
「そうですね……ならば、ヘルメットをここに置いていきなさい」
「何ですって?」
 審査官が口にした内容を、私が上手くかみ砕けなかった。突然出てきた単語に面食らったのもあったけれど相手が要求したものが、手の中の金銭よりも価値があるようにはとても思えなかったからだ。
「何か問題でも?」
 不意に審査官が問いかけてくる。
「ええ、大いに。ご存じだろうと思いますけどヘルメットなしの運転は非常に危険ですし、交通法にも違反してしまいます」
「従えなのならば引き返せ。力に信ずるところがあるならば押し通ってみるがいい。貴様の胸が赤く花咲いても良いというのなら」
 腰のガンホルダーに手を添える。私は言われたとおりにヘルメットを渡す。もし転倒することがあっても、あたりは砂ばかりで頭を打つ心配はさそうだった。なによりおずおずと引き返してしまうのが馬鹿馬鹿しいくらいに、目的地が間近に迫っていた。

 審査官が櫓の一番上まで戻ってしまってから、付属のゴーグルも一緒に相手にやってしまったのに気がつく。ヘルメットがなくても運転自体は出来るが、これでは舞い上がる砂から目や顔を守るものがない。
 ゴーグルだけ返してもらおうと、櫓の下から一番上にいる人影に呼びかける。けれども返事はない。代わりに身振り手振りで早く行けとしめす。なおも食い下がっていると、おしまいには空砲さえ撃ってくる。星空に向かって放たれた弾丸は少しの間をおいて、まっすぐに地上に落ちていく。よりにもよってこちらに、それもバイクがあるところに。

 きいんと金属質な嫌な音が響く。どうやら弾丸は見事に機械の心臓部を撃ち抜いたらしい。いくらセルを回しても乗り物はもう動かない。まるで美術館に飾られた造形物みたいに、静けさを保ったままその場にある。
 仕方がないので私はバイクを押しながら、先を進んでいかねばならなくなった。もちろん三キロほどの車両を自力で運搬するという作業は、言葉にするまでもなく過酷な重労働だった。
 エンジンという推進力を失ったタイヤは半ば砂中に埋まっている。そのことによる物理的な抵抗に、車両自体の重さが加わって、ハンドルに体重をかけていても少しずつしか進めない。私を肉体的にも精神的にも疲労させ、道程を困難なものにさせた。

 正直に言えば、もうこんな重たいものは置いていきかった。身軽になって、さっさと妹のもとに行きたかった。しかし、こんな辺境の地でも物盗りがいないとは限らない。このような砂漠でも盗賊が出るのだ、と昔話で聞いたことがある。それに帰るときには必要になるはずだから、今は手放すわけにはいかなかった。またあの国には中古のゴーグルや、修理用の道具や部品が売っているかもしれないという望みもあった。
 どれくらい歩いたろうか。まだ満月が頭の上にあるけれど、ずいぶん長いあいだ、バイクを押し続けていたような気がする。ふと思うところがあって来た道を振り返ってみると、轍が向こうからずっと長く続いていた。自分でも感心してしまうくらいに、砂漠の中に一本のすぐな筋道が本当にどこまでも。
 進み続けているうちに、検問所の物見櫓がまた目の前に現れる。


「通行料だ! 何はともあれ通行料だよ、早く出して!」
 下に降りてきた入国審査官がそう伝えてくる。私はコートの懐から紙幣を適当に出して突き出す。しかし相手は頑として受け取らない。求めているのは、このようなものではないという。
「そうだな……じゃあ、そのコートをちょうだい! コートくれないんなら引き返して。嫌なら無理やり通ってみれば? その前に君の頭蓋骨に穴が開くのが早いと思うけど」
 言いながら審査官は、これ見よがしに腰元のホルダーを鳴らした。私は相手に逆らうことはせずに、黙ってコートを脱いで渡す。交渉や言い合いをするのにはいささか疲れていたからだ。それにゴーグルに比べれば大したものではない。

 バイバーイ。歩き出そうとすると審査官が櫓の上からそう叫んで、手を振っている。前に出くわした審査官とは比較にならないくらいに愛想がよいので、こちらも何だか照れくさいような、くすぐったいような良い気分になって手を振り返す。とはいえどさっきまで身に着けていたコートが旗みたいに振り回されて、翻っているのは何だか妙な心持がした。

 ジャケットとシャツだけでは、さすがに夜の砂漠は寒い。まるで幾百ものカミソリで肌を切られているような冷たさだ。しかも汗をかいているので、なおさら芯から身体が凍えていく感じがする。砂漠をひたすら進んでいると、また物見櫓に出くわす。
「ここから先は通行料が必要になります。対価を出してください」
 入国審査官が言う。けれども私は即座に相手の要求には応えずに、また を言い渡されるのを待っている。どうせ求められているのは現金などではないのはわかっていた。
「この場所では、その手袋をいただきましょう。もし提出を拒否するのならば、このまま引き返してもらいます。不服なら押し通るのも選択の一つです。ただし、塞がることのない傷を恐れないのならばの話ですが」
 ここでも私は審査官に従う。けして痛みや苦しみ、恐怖を恐れたのではない。ただ早く目的地まで通り抜けたかっただけだ。長い旅路や重荷、熱さや寒さを耐えてきたのがその証拠だ。妹にもう一度会えるのなら、こんなものはなんてことはない。

 それからも私は銀色の櫓に差し掛かるたびにジャケット、ブーツ、靴下留め、はてはバイク(さすがにこれを取られそうになったときは一悶着あった。しかし徒手空拳で銃には勝てない)までをも、国境を通行する対価として次々に差し出さねばならなかった。おかげで今ではシャツとズボンしか手元には残っていない。

 絶え間なく寒さにさらされ続けているために手足どころか、もはや肌の感覚が無い。全身がしびれる感じがして、まるで肉体が磁器にでも変わってしまったようだった。一歩踏み込むごとに両脚が砂の中に沈んで絡み取られるので、前進するたびにどちらかの足を深く根づいたジャガイモのように引き抜かねばならならかった。そのような諸々の条件は私を苛立たせ、もともと困憊していた心身をさらに疲労させた。

 ところどころに現れ始めた植物だけが、私の心を慰めた。初めのうちはスズメノカタビラの小さな群集が、飛び地のように砂漠の中にまばらに散っているだけだった。けれども歩いているうちに青々とした場所の面積が徐々に広がっていき、そこにクローバーやエノコログサの姿がちらほら見え始め、ついでアベリアやローズマリーなどの低木が混じるようになっていく。そんな中を進んでいくうちに取り囲む樹々や草々の背丈は高くなり、気がつくと私は鬱蒼とした森の入り口に出た。

2

真夜中の森はしんと静まり返っていて虫の音一つどころか、梢のざわめきすら聞こえてこなかった。森の存在は影絵のように、暗闇に包まれたまま一個の塊として目の前にある。
 音もなければ風も吹かない、その光景に私は不思議と恐ろしさは覚えない。むしろ安堵感の方が大きかった。雑草がしっかり地面に根づいて、固まっているために足場が頼りないということもなかったし、また周囲を取り囲んでいる樹々のおかげで、ずっと全身を苛んでいた冷ややかな空気が幾分か遮られたのもあった。何より、ここが妹たちの国の入り口であることが私にとっては一番重要な事実だった。私はようやく求めていた場所に辿り着いたのだ。

 だが目的地に着いたというだけでは、まだ不十分だった。しなければいけないことはもう一つある。どうしても私は自分の妹に会って、この国から連れ出さねばならない。私は闇に封じられた森の中へ踏み出した。

 砂漠の乾燥した空間とは違って、森はずっと水の気配がする。とはいっても巌を穿つ雫の水音や渓流のせせらぎとかのあからさまなものではない。葉身の青さや瑞々しさ、あるいは泥で汚れた靴下の重さなどもっと微妙で隠避な感覚だ。そのような湿っぽい雰囲気が、真夜中の深い暗さと視界の狭さも相まって何となくあてのない、やるせない気持ちを起こさせた。怪我のせいもあるのかもしれない。

 生い茂る梢に閉ざされた暗い森の中を進んでいくたびに無造作に伸びた樹の枝が、シャツやズボンにたびたび引っかかった。枝の先端や樹肌のささくれだった部分が、服の布地をほつれさせて破れ目を作った。また、ときおり肌を掻き破って血が流れることさえある。そうして気がつくと、じんじんとした疼痛が体のあちこちに広がるありさまになっている。

 もちろん、こちらも人間なのだから何とも思わないわけはない。苦しいのはまだ耐えられる。だが痛いのはずっと昔から嫌いだし、感染症は怖い。だから大小問わず流血沙汰はなるべく避ける。
 しかし私に足を止めるという選択肢は存在しない。どのような形であれ、私はもう一度妹を自分のものにしなければいけなかった。妹のいない兄など割れたフラワリウムと同じく無意味であるし、音の鳴らない銅鑼くらいに滑稽にもほどがある。

 歩を進めるたびに森の草木は私を傷つけ、痛めつけた。あの子も、こんなところを通ってきたのだろうか。そんなことを考えると、何だか無性に悲しくなかった。
 私は自分自身と同じくらいに彼女のことを愛している。妹のために自分の骨を折れと言われたら、きちんと真っ二つに折るだろうし、または逆に自分のために妹の骨を折ることだって出来る。なるべく苦しまないように、素早く的確に。こんな道と比べなくとも、それくらいの資格が私にはある。それを――痛みを私以外が彼女に与えるなど、けして許されることではない。

 ひきつるようなうずくような痛みとともに、ひたすら前へ前へと歩き続けていた。すると、不意にどこからか歌声が聞こえてくる。放課後の校庭の隅で寄り合っている女の子たちを思い起こさせるような複数の、囁くような歌声だ。

 その中の一つ、ソプラノの域に隠れている小さく低めの声質には聞き覚えがある。妹だ。小さなころから幾千も幾万回も耳にしてきたのだから、人違いをするはずがない。この森のどこかで私の妹が歌っている。

 そういえばメロディーにも、何となく記憶がある気がした。だけれど、これがどんな名の曲なのかはまったく思い出せない。幼いころに数えきれないくらいに口ずさんだ童謡である感じもするし、私たちが生まれ来るはるか以前の流行ったシャンソンというような趣もある。あるいは讃美歌ではないかという印象もあった。そのような異なるイメージをその曲は一切の矛盾なく、美しい整合性をもって内包していた。

 私は自分が傷つくのにもかまわずに駆け出して、走りながら妹の名前を呼。今際の際に絶唱するナイチンゲールのごとく大きく叫ぶ。彼女が私に気つくまで何度でも。そのあいだも歌声は途切れることはなかった。まるで自分たち以外はこの森に存在していないという風に、妹たちはずっと歌い続けている。
 距離感が何だかおかしかった。どんなに早く駆け寄ろうとしても、私は声の源に近づくことが出来ない。惑星の周囲を運行する衛星みたいに、我々はいつも一定の距離が保たれていた。たとえば私が一歩進むごとにあちらも一歩遠ざかり、私が一つ後ろに退くたびにあちらも一つ前に出る……そんなぐあいに。

 会いたかった人が間近にいるのに傍に寄れない。それどころか間近に迫る術がないというのは、相手が遠ざかっていくよりももどかしかった。そのもどかしさは穴の開いたシチュー皿に似た、激しい飢餓感をともなっていた。そして私は悲しみを通り越して、もはや怒りや憎悪さえ覚える。
 私は様々なものを取り上げられてまであなたを求めたのに、与えられるべきものが与えられない。どうしてあなたは私をこのように扱うのだろう。そんなひどく恨みがましい心持を持ち始めた。誰に? わからない。
 ……嘘だ。わかっている。だが、認めるわけにはいかない。彼女が、もはや私のために額ずくことがないなどとは。私の妹が兄の言うことに従わないなどとは。そんなことは絶対にあってはならない。

 ありったけの声で、妹の名前を呼ぶ。ついで出ておいで、と叫ぶ。一緒に帰ろうと、また前みたいに仲良くしようと。

 瞬間、あたりに響いていた歌声がぴたりと止まった。しかし、いつまで経っても応えは返ってこない。森の中は静まり返っている。
 じっとひたすら耳を澄ませていると、どこかで木の葉がかさりと揺れた。ほんの一瞬のことだったけれど、私には音が聞こえた場所が確かにわかる。また、そこには誰がいるのかということもちゃんと理解できる。
 振り返ったところに茂みがあり、その奥に人影が陽炎のように揺らめきながら、その場にたたずんでいた。どうやら相手は白い服を着ているらしい。真新しい紙を切り抜いてきたみたいに、身体の輪郭が闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。
 その鮮明な色合いの布地には、乏しい月明かりの全てが集まって反射しているようだ。そのために相手の姿かたちが、こちらにもはっきりと判別できる。ずっと昔から私の隣にあるべきだったはずの人物の姿が、何があっても見紛うはずのない顔立ちが。

 繁みをかき分けて、私は自分の妹の傍に駆け寄る。先に進むたびにやはり枝や棘が肌を傷つけるが、私はかまわずにひたすら足を動かす。もう一度手に入れなければならない。もう勝手に死んでしまわないように。もう二度と自分で歩いて、離れることが出来ないように。
 そうして、とうとう私たちは向かい合う。どうやら彼女は私に会えて嬉しいらしかった。まるで優美に伸びたドレスの裾のように、ゆったりとした笑みを浮かべている。僕も嬉しい、とそう言いたい。一刻も早く。でも――さまざまな土地を長くさすらうほどに求めてやまなかった人を前にしても、私はすぐに声は出ない。急いでいたために息が上がっていることもある。けれども一番には胸がいっぱいで、言葉が出てこないのが大きかった。
 私は自分の妹を抱きしめる。彼女の身体は昔と同じように柔らかかった。髪の毛も以前と変わらず吸いつくように瑞々しく、うなじからもとても良い匂いがする。真夜中に降り積もった新雪に似た匂いが。それらの何もかもが私にとってはひどく懐かしかった。


 さらに彼女をさらに引き寄せて、強く抱きしめる。その途端、胸に痛みが走る。最初は注射針が皮膚の下に入り込んでくるときのような、ささやかな痛みだった。しかしそれは時間を経るとともに、どんどん強さと激しさを増していく。
 腹がしゃっくりを起こしたみたいに慄く。ついで熱く、鉄臭いものが喉の奥からせり上がってきて口内に目いっぱい広がった。粘性のある体液が唇から溢れ、顎をだらりと伝って地面までぼたぼたと零れ落ちる。そうしてシャツがまんべんなく、じっとりと血に濡れているのに気がつく。

 腕の中にある感触も、すっかり変わっていた。身体に密着している感触が枯れ木のように硬く、冷たい。そして、とてもざらついている。明らかに人間の皮膚ではなかった。
 私はおもむろに、相手の背中に回していた腕を離す。そうして今まで抱きしめていたものを、まじまじと見る。すると目の前にあるのは、肩丈ほどの、まだ生え始めたばかりという木だ。私の妹が、小さな木に変身している。あるいはこの木を、ずっと妹だと思っていたのか。いや、そんなはずがない。抱きしめたときの肌触りは確かに人間だった。

 小木から慌てて離れると、胸元に刺さっていた枝が勢いよくずるりと抜ける。それがいけなかった。傷口から血がどんどん溢れて止まらない。みたいに。故障したメリーゴーランドに縛りつけられたみたいに、視界がぐるぐると回る。激しい目眩に気が遠くなる。わずかな間をおいたのちに木を切り倒すような音があたりに響いて、わたしは地面に付したまま動けなくなっている。
 視界がすっかり暗くなり、意識がもうろうとしてきたころ。誰かの声が耳に入ってくる。生まれてから今までずっと聞いたことのない、知らない女の声だ。
 今から、と名前のわからない女は私の耳元で言う。
「今からお前は呪われた者になった。目が覚めれば、お前は地上をさまようことになる。この世界のあらゆる川や泉、野原と森が枯れ尽きるまで。昼もなく夜もなく、どこにも辿り着くことなく永久に」
 そこまで聞いたところで私は意識を失う。

3

 そして再び目を開いたとき、私の傍には誰もいなかった。私が倒れているところも、もはや森ではない。多くの梢に閉ざされていた空は開けて、頭上には星空が輝いている。そして周囲にはなだらかな砂の丘がどこまでも続いていた。わたしは砂漠で眠りこけていたようだ。

 身体に傷はなく、痛みもなかった。シャツにも穴はなく、しっかり乾いている。まるで何も起きなかったみたいに。でも、記憶にある今までの出来事は夢ではない。入国審査官に取られたものは、しっかりなくなっている。

 しばらくして私は起き上がり、その場に立つ。そうしていささかの後に、再び砂の中を歩き出した。自分でもわかるくらいに気落ちした足取りだった。乗ってきたバイクはもうないから、前より旅の道行は困難になるだろう。現金は取り上げられなかったので、またどこかで購入し直せばいいのだけれど、こんな砂漠の中では販売店など望めない。その事実は私を失望させ、うんざりさせた。

 しかしだからといって、足を止めるわけにはいかなかった。私はどうしても妹に会って、彼女を自分の傍に取り戻さなければならない。そのときまで私は諦めるつもりはなかった。たとえそれが百年後になろうと、百万年後になろうと。

【終わり】

あとがき

最後までお読みいただき、ありがとうございました。楽しんでいただけたのなら、幸甚の極みです。そして主催者の方におかれましては、このような貴重な場を用意していただき感謝しています。お疲れさまでした。
メリークリスマス(ハッピーホリデー)&ハッピーニューイヤー!

長すぎて読むのがしゃらくせえという方には前後篇の分割版がおすすめ


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高野優
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