9月に会いましょう
9月になってバカンス帰りの人々がイタリアの街々に戻ってきました。
イタリアでは毎年6月にもなると、それほどひんぱんには会わない人同士の別れの挨拶として、「9月に会いましょう」というのが多くなります。
夏のバカンス後にまたお会いしましょうね、という意味です。
さらに7月にもなると、しょっちゅう会っている人同士でも、この「9月に会いましょう」が別れの常套句、あるいは合言葉のようになります。
イタリア人にとっては夏の長期休暇というのはそれほどに当然のことで、人々の日常の挨拶にも如実にあらわれるのです。
コロナ禍は続きますが、ワクチンの接種が進んで、今夏は自粛を迫られた人々が反動でどっとバカンスに繰り出しました。
良く言われるように、長い人は1ヶ月の休みを取ることも珍しくありません。もちろんそれ以上に長いバカンスを過ごす者もいます。休暇の長さは、人それぞれの仕事状況と経済状況によって、文字通り千差万別です。
裕福な人々や幸運な道楽者のうちには、子供の学校の休みに合わせて、3ヶ月の休暇を取るようなトンデモ人間もいたりしますが、さすがにそれはごく少数派。
それでも、子供の休みに合わせて、妻以下の家族が6月から8月の間は海や山のセカンドハウスに移住し、夫は都市部に残って通常通りに働きながら週末だけ家族の元に通うケースもよくあります。
筆者はそれを「通勤バカンス」と勝手に呼んでいますが、通勤バカンスを過ごす男たちも、もちろんどこかで長期の完全休暇を取ることはいうまでもありません。
休むことに罪悪感を覚えるどころか、それを大いに賞賛し、鼓舞し、喜ぶ人々が住むこの国では、そんな風にさまざまなバカンス模様を見ることができます。
とはいうものの実は、大多数のイタリア国民、つまり一般の勤め人たちは、最低保証の年間5週間の有給休暇のうち、2週間の「夏休み」を取るのが普通です。
それは法律で決まっている最低限の「夏期休暇の日数」で、たとえば筆者がつい最近まで経営していた、個人事務所に毛が生えただけのささやかな番組制作会社でも同じです。
会社はその規模には関係なくスタッフに最低2週間の有給休暇を与えなければなりません。零細企業にとっては大変な負担です。
しかし、それは働く人々にとってはとても大切なことだと筆者は感じます。人間は働くために生きているのではない。生きるために働くのです。
そして生きている限りは、人間らしい生き方をするべきであり、人間らしい生き方をするためには休暇は大いに必要なものです。
イタリアでは2週間の夏の休みは、8月初めから同月の半ば頃までの間に取る人が圧倒的に多い。会社や工場などもこの期間は完全休業になります。
ところが、時間差休暇というものがあって、時間に融通のきく仕事を持っている人々の中には、多くの人の休暇が集中する8月の混乱期を避けて、バカンスを前倒しにしたり、逆に遅らせて出かける者も相当数います。
そうすると、普通の期間に休みを取る人々は、休み前にも休みが明けてもクライアントがいなかったり、逆に自らがクライアントとなって仕事を出す相手がいなかったりします。
どんな仕事でも相手があってはじめて成り立ちますから、休暇前や休暇後に相方不在の状況に陥って、仕事の量が減り能率もがくんと落ちてしまいます
そこに長期休暇を取る人々の仕事の空白なども加わって、7月から8月末までのイタリアは、国中が総バカンス状態のようになってしまうのです。
すると人々の心理は、7月特に8月なんてどうせ仕事にならない、というふうに傾いてさらに労働意欲が失せて、ますます仕事が遠のきます。
だから6月にもなると、7月と8月を飛び越して、「9月に会いましょう」が仕事上の人々の合言葉になるわけです。
イタリアがバカンス大国であるゆえんは、夏の間は仕事が回らないことを誰もが納得して、ゆるりと9月を待つところにあります。
TVドキュメンタリー監督として、ロンドン、東京、ニューヨークに移り住んで仕事をした後にこの国に来た筆者は、当初は仕事の能率の上がらないイタリアの夏の状況を怒りまくり、ののしりまくっていたものです。
しかし今はまったく違います。これだけ休み、これだけのんびりしながらも、イタリアは一級の富裕国です。働く人々の長期休暇が極端に少ないたとえば日本などよりも、豊かさの質がはるかに上だとさえ感じます。
9月に会いましょう!と明るく声をかけあって、イタリア的に休みまくるのはやはり、誰がなんと言おうが、良いことなのだと思わずにはいられません。