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漁師の命と百姓の政治

菜園を耕してみて分かったことの一つは、野菜は土が育ててくれる、という真理です。
土作りを怠らず、草を摘み、水や肥料を与え、虫を駆除し、風雪から保護するなどして働きつづければ、作物は大きく育ち収穫は飛躍的に伸びます。
しかし実は、種をまいてあとは放っておいても、大地は最小限の作物を育ててくれるのす。
農夫はそうやって自然の恵みを受け、恵みを食べて命をつなぎます。農夫は大地に命を守られています。

大地が働いてくれる分、農夫には時間の余裕があります。余った時間に農夫は三々五々集まります。するとそこには政治が生まれます。
1人では政治はできません。2人でも政治は生まれません。2人の男は殺し合うか助け合うだけです。
農夫が3人以上集まると、そこに政治が動き出し人事が発生します。
政治は原初、百姓のものでした。政治家の多くが今も百姓面をしているのは、おそらく偶然ではありません。
漁師の生は農夫とは違います。漁師は日常的に命を賭して生きる糧を得ます。
漁師は船で漁に出ます。近場に魚がいなければ彼は沖に漕ぎ進めます。そこも不漁なら彼はさらに沖合いを目指します。
彼は家族の空腹をいやすために、魚影を探してひたすら遠くに船を動かします。
ふいに嵐や突風や大波が襲います。逃げ遅れた漁師はそこで命を落とします。
古来、海の男たちはそうやって死と隣り合わせの生業で家族を養い、実際に死んでいきました。
彼らの心情が、土とともに暮らす農夫よりもすさみ、且つ刹那的になりがちなのはそれが理由です。

船底の板子1枚を経ただけの、荒海という地獄と格闘する漁師の生き様は劇的です。
劇的なものは歌になりやすい。
演歌のテーマが往々にして漁師であるのは、故なきことではありません。
現代の漁師は馬力のある高速船を手にしたがります。格好つけや美意識のためではありません。
沖で危険が迫ったとき、一目散に港に逃げ帰るためです。
また高速船には他者を出し抜いて速く漁場に着いて、漁獲高を伸ばす、という効用もあります。
そうやって現代の漁師の生は死から少し遠ざかり、欲が少し増して昔風の「荒ぶる純朴な生き様」は薄れました。
水産業全体が「獲る漁業」から養殖中心の「育てる漁業」に変貌しつつあることも、往時の漁師の流儀が廃れる原因になりました。
今日の漁師の仕事の多くは、近海に定位置を確保してそこで「獲物を育てる」漁法に変わりました。農夫が田畑で働く姿に似てきたのです。
それでも漁師の歌は作られます。北海の嵐に向かって漕ぎ出す漁師の生き様は、男の冒険心をくすぐって止みません。
人の想像力がある限り、演歌の中の荒ぶる漁師は永遠です。

冒頭イラスト:© ザ・プランクス

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