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234:視覚芸術 オーギュスト・ルノワール

水曜日は芸術を学びます😃

オーギュスト・ルノワール(1841~1919)

フランスの印象派の重要な画家のひとり

仕立て屋の息子で13歳のときに

扇を装飾したり陶器に花の絵を描く仕事に就いていた

ルーヴル美術館で模写して技量を高めると

1861年美術学校に入学したのち

アカデミック画家シャルル・グレールのアトリエに入り

クロード・モネ、アルフレッド・シスレー、フレデリック・バジーユらと出会った

1860年代には公式の展覧会サロンに何度か出品したが

1874年サロンに反発した印象派が開いた

第一回印象派展に参加して印象派の一員となる

それから10年は印象派の考え方は

ルノワールのスタイルに大きな影響を与えた


『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』(1876年)

情景をそのまま切り取ったかのような画面構成にすることにより

絵の中の世界が外界とつながっているかのように見せた

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この作品を1877年第三回印象派展に出品した


サロンへの復帰と古典への回帰

1878年より再びサロンに出品するようになり

上流階級の人々から後援を受けるようになった

これにより経済的な苦境から脱出すると

各地を旅するようになり
1881年に北アフリカを
1882年からはイタリアを旅した

イタリアでラファエロや古典古代の
彫刻に見られる古典主義を研究し
これをきっかけに

印象派の主観的な芸術感に疑問を抱くようになり

作品が変わっていった

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これによりポスト印象派の画家として挙げられることもある

1900年にルノワールは公的立場の人々からも
高く評価されるようになり

その証として
「レジオン・ドヌール勲章」を受章した
(ナポレオンが制定したフランスの栄典)


後年

その直後から健康状態が悪化し
1910年には絵筆を手に縛りつけないと
絵すら描けない状態だった

さらに1915年 

息子でのちに有名な映画監督となるジャンが

第一次世界大戦で重傷を負い

直後にルノワールの妻が亡くなる不幸が襲った

そんな中でもルノワールは絵を描き続け

70歳からは彫刻への挑戦を始めるなど

病気と戦いながら最後まで作品を作り続けた


おわりに

ルノワールの芸術家としての心構えは

「神々の楽園としての地上世界。それを私は描きたいのだ」

という言葉に凝縮されている

印象派から古典主義の作品に刺激を受けて

作品が変わっていくところが心に残る

新しい出会った芸術にしっかり傾倒し

研究し自身の作品に投影していく

なかなか出来ることではないが

自分の信じたものに突き進む力のすごさを感じました

今日はここまで!

最後までお読み頂きありがとうございます😃

今日もこちらから学びました


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