お金と政治のないリアルな未来ビジョン~『人新生の「資本論」書評③』
6: 三つの批判点
私には本書に次の3つの点で不満がある。
資本主義をシステマチックに捉え、政治的な糾弾が足りない事。
まず精神的なレベルで資本主義を克服するという意識の薄さ。
資本だけでなく政治や国家を克服する未来のビジョンがない事。
著者・斎藤幸平は本書で資本主義の背後にある人間性を解き明かすことはしなかった。この欠如によって、まるで利潤を最大限に追求するシステムがどこからともなく降ってきたかのようにも感じさせる。
資本主義とは人間のごう慢さが生み出したものだ。
『Humankind』で著者ブレグマンは農耕定住型社会になったときに、収穫物を独り占めしようとする者が出てきたことを指摘している。
資本の元には、ごう慢な人間、ナルシズム型の人格障害を患ったような病人がいた。その病はパンデミックのように周囲に伝播してゆき、気づけば彼らは大集団になって武器を手にしていた。
それが国家や政治の始まりで、彼らはそのごう慢さを正当化する聖典として資本主義を生み出したと言える。
資本主義を最前線で守っているのは政治家や一部の特権階級であり、彼らへの糾弾や責任追及なくして真の改革は起こらない。それが本書には欠けている。
そしてそれは多くの庶民の心にも巣食った精神病だ。だからこそ覚醒するのは難しいことなのだが、斎藤は改革の具体策を訴えるだけで、精神的に克服するかについてはほとんど言及していない。
もう1つ、斎藤は政治主義の打破を掲げながら、皮肉にも政治とコモンが融合する未来のビジョンを見ている。
政治がない状況を野蛮なアナーキズムと決めつける彼の態度には、利己的な人類観が透けて見える。
ブレグマンは『Humankind』の中で、人類は本来善良だという性善説こそが新たなリアリティだと無数の例を上げて証明して見せた。
私もまた、国家や政治がなくても思いやりで繋がる人類の未来の方を信じている。資本がなくなると共に政治や国家がなくなっても何も問題はない。これは神話や楽観論ではなく、新時代のリアルなビジョンである。
7:わずか3.5%の大きな希望
最後は私の個人的なビジョンを描きたい。資本主義の克服のために、私たちは何をすればいいのか。私は本書を読んだ後、イオンモールに行き山のようにある商品を見たとき途方もない虚無感に包まれた。
一体、今さら何をすれば良いというのか。
だが、アクティビズムはほんの一歩踏み出すことから始まる。休日をゲームでつぶすくらいなら近所の海でゴミ拾いをしてみてはどうだろう。ツイッターに上げて仲間を募れば、誰か一緒にやってくれるかもしれない。SNSの時代の強みはこういう風に発揮すべきものだろう。
仕事が忙しすぎてそんな暇はないという人は、斎藤幸平が「帝国的生活様式」と呼ぶ贅沢なライフスタイルにしがみついてはいないか。
私たちはグローバルサウス・後進国の環境を搾取しながら贅沢を味わっている。この負荷の空間的な転嫁はニュースにはならず目に見えない所で行われているので多くの人は気づきにくい。
ユニクロで爆買いすることや電気を使い放題にすることや近所にも車で行くことなど、帝国的生活様式は庶民の中にも無数にある。
こういった点で生活レベルを落せば労働時間も減って余暇が生まれ、何か世の中に本当に役立つことができるのではないか
政治運動においては本書の最終盤でわずか3.5%の人が動くだけでエコーチェンバー的に世の中全体が変わり出すという指摘もある。バルセロナのようなFearless Cityの実例もあり、とても希望の持てる読後感を与える。
お金のない世の中をイメージすることから全ては始まる。
それはすでに私たちの自己認識の中にふくまれている。私たちの命には値札がないし、その内に秘めた技術や能力は商品ではない。もっと自然でシンプルで当たり前のものの見方をするだけで、世界は変わって見えるのだ。
そして私はまだ政治にも希望を持っている。
『人新生の「資本論」』が示した労働生産改革による下からの政治運動と上からの政治制度改革の融合の元では、政治への信頼回復が果たせるのではないだろうか。
アメリカには富裕層を徹底的に糾弾するバーニー・サンダースのような政治家もいる。日本でも立憲民主の小川淳也議員はGDPの成長神話から持続可能型社会への脱却を明言している。
下からの政治活動によってこうしたリベラルな政治家に力を与えれば、政治もまた庶民と共に脱資本を目指すようようなるだろう。
私はまだ怠惰な政治主義に囚われた96.5%の人類の中に属している。しかし3.5%の変革の輪に入ることはそれほど難しい事ではない。
自分の家の庭に新しい木を植えるだけでもいい。そういう小さなアクションがいつか3.5%の実を作るのだ。■ 全3回おわり