映画制作日誌|脚本づくりの「見守り」方 ーー鑑賞者から共犯者へーー

脚本を作るのは、難しい。ということは、経験が無くとも、なんとなく想像がつく。けれど、脚本を見守ることも難しいとは、予想していなかった。

我々はいま、2023年3月にはお披露目を終えているであろう(?)映画の完成に向けて、脚本を練っている。
その過程は監督渾身のnoteに書かれているので、ここでは割愛。


冒頭で「脚本を見守る」などと表現したのは、私のためらいの現れかもしれない。
というのも、私や他のメンバーは、「脚本を作っている」とは断言できないからだ。映画で見せたいものの一番の核になる部分は、やはり監督・寺尾都麦の中からしか出てこない。というか、そうであって欲しい。
かといって、傍観者的な立ち位置でもない。疑問や矛盾、不足を感じる点を伝えたり、都麦の中にある言語化以前のエッセンスを聞き出そうと試みたりしている。


"私はこの脚本に対して、どう向き合うべきか"
喫緊の私のテーマはそこにある気がする。

内側の人間(監督や制作メンバー、そして私)が納得できる脚本にするためには、ひっかかりは解消しておきたい。

とはいえ、(画面越しの)目の前にいるのは、生身の人間だ。
しかも、厄介なことに都麦は、本人と作品が一体になってしまうタイプの人間だ。
都麦にとって脚本が否定されることは、本人の生活の大半が否定されることと等しいかもしれない。
時々忘れそうになるけれど、都麦だって怪我をすれば血が出るんだろうな。
脚本に関することならば、ガラス片のように些細な発言でも、致命傷を与えかねない。

そんなことを思うと、安易にコメントできなくなってくる。
それでも、制作が進行して今更変えられない状況になる前に、思うことは言っておかなきゃいけないと思う。思うというか、これは自戒。



という考えに至った背景には、こういうエピソードがある。

監督の前作『ブルートピア』を、私は単なる観客として観た。
そして、長々と感想を書いて送った。

その8割は、感謝と愛とリスペクトのでっかい感情大爆発メッセージだったが、迷いに迷った挙句、こんなことも書いた。

厳しい意見も歓迎ということで、思ったことを少しだけ書きます。
主観ですが、ナギサには走ってほしくなかった。他のシーンはすべて、主人公の意思で動いているように見えたのに対して、このシーンだけは、脚本によって動かされている印象が強かったように感じました。

一応言い訳をしておくと、『ブルートピア』には、学生映画の域に留まらない、批評に耐えうるだけの強さがあるという確信と、本気の制作には本気の感想(100%の肯定的意見とは限らない)を書く方が誠実かもしれないという考えがあったから、書いた。それにしても過去の自分、生意気が過ぎますぞ。

最近聞いた話だが、その感想を受けた監督は、数日間ショックを引きずったそうだ。(ごめんね)


作品をつくるということは、批評の対象となる覚悟が必要だということだ。
前作で監督は、その負荷と打撃を全身に受けた。

今作ろうとしている二作目だって、「脚本によって動かされている」だとかなんだとか、偉そうな批判を受ける可能性はある。もちろん公開されれば、作品は作り手の手を離れ、後は鑑賞者に委ねられるものだと考えて良いだろうし、感じることは人それぞれで当然だ。
けれど、脚本の段階で考え詰めれば改善できることもあるかもしれない。


今回は私も、つくる(見守る)側に立ってしまった。
監督にガラス片を投げつける役でもあり、被る役でもあるということか。


怖い。
難しい。
頑張る。
頑張ろ。


無論批評精神の薄弱なものに助言というものは出来ない理だが、批評ができるからといって助言ができるとは限らぬ。助言というものはもっと実際的な切実な親身な筋合いのものだ、と私は考えたい。

小林秀雄「作家志願者への助言」(『読書について』2012年,中央公論新社)

2022.5.18 萌恵子




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