「無目的」読了
私の行動原理を書いてくれていた本を読了した。あちらこちらに身に覚えのある話がたくさん。私は昔から無目的な人だったらしい、と思った本。
私の平日休暇の過ごし方、エレクトーンの楽しみ方、エッセイの書きやすさ、今は鬱病とまで言わないものの鬱への振れやすさ…
いろいろな行動のベースになっていることが良くわかった。
図書館の新着図書コーナーで見かけて借りた本。棚の前でパラパラとめくると、初めの方にエッセイについて書かれていた。
成り行き任せに書いている私のnoteは、エッセイというジャンルに含まれるのは間違いない。ジャンルを決めて書いている訳ではないし、書くのが好きな訳でもなく、他のジャンルで書く予定も技術もない。
エッセイの書き方も習ったことはない。が、自分の書き方に似た話が書かれているように見えたので借りてきた。
本の中身は…
エッセイの話はあちらこちらに出てくるが、多いのは初めの方。
定義の難しいノマドについても詳しかったり、エッセイではない文学の話もあったり、旅、マインドフルネスなど、いろいろな話が入っているコラージュ。
コラージュについても書かれていた。
いろいろな方面から考えられている「無目的」。
基本的には無目的の良さを書きたい本と思う。が、良い方面からも悪い方面からも、いろいろな話がコラージュされていた。
エッセイの話に戻す。
自分のエッセイの良し悪しは知らない。気にしていないのでどうでも良い。技術として習ったこともない、成り行き任せな文章を書いている。
ただ、人が読むことを前提に書き始めた時点で、エッセイと呼ぶのではないか、とは思っていた。
私のnoteは、今はエッセイだが、スタートは日記と写真のワークショップ。
一般公開が前提と聞いてスタートした経緯もあり、日記というスタイルに寄せたエッセイと感じていた。読書感想文だろうが何を書こうが、その日の話を入れて、日記スタイルに寄せていくのは面白かった。
毎日なんて書けるものなのか?と自分でも不安を感じながらのスタートだった。が、何も考えず書き出せば、後はどうにかなった。
特に書きやすい日は、複数の話題がある日。話題に関連がなくても大丈夫。
ということは、文と写真を関係ない内容にすれば、それだけでも書きやすい条件が揃うということ。思いがけず、私にはとても楽な内容だった。
この本を読んで、私の動き方や考え方とエッセイの相性が良い、ということが良く理解できた。
「エッセイは旅や散歩のようであり、心のゆるやかな前進である」という言葉を著者が引用していた。
別な章では、「無目的性の利益は、ある水準の、未来志向の制約に依存しているのだ。」という文もあった。
無目的なら、状況が悪化する方を選んでも良い。が、選べるときに、通常はあえてそちらを選ばない。無目的と言っても、そういう少しの制限付き。どことなく良い未来に繋げていく意思が働いている、ということだろう。
このnoteを、苦もなく続けられている理由がよくわかったうえ、「心が前進」するのなら、私の豆腐メンタルにも良いということだろう。
これからも誰か読んでくれているなら、続けられるような気がした。休止もなく続けられるかまでは知らない。
ちなみに… 建築祭以降になるのか、ビューの数がかなり伸びた。建築祭noteのビュー数が継続している感じなのか。数値目標はないので詳細は確認していないが、建築祭の前から何倍になったのだろう。
私のnoteに役立つ内容はないはずだが。
タイパを気にしながら、誰かがどこかまでスクロールしてくださる様子。感謝しています。途中終了も飛ばし読みも問題ありません。
語群、二つの違いを、翻訳ものの中で明確に感じ分けるのは難しかった。が、アートとスタイルは私の中で大切にしているというか、私が何かするときに気にする部分と思うので、何となく納得した文章。
アートへの理解が深まった気がするのは、比較的最近の話。昔から気ままに楽しんではいた。
自分をアーティストと呼ぶ気はない。
が、私のnoteは、私の表現であり、私のアート。
それから、外出中の私の見た目は、多くの他人に何か影響を与えるようになったらしい。視線が苦手な私でも外出中は、動くパブリックアートになった気分でいたりもする。それも私の表現。
スタイルは、もっと前から気にして動いている。
人からどう見られるかに、こだわりない障害を持っているらしい私には、良く見られたいという動機はない。ただ、方法として良いと思えば、見た目も行動もコントロールしていく。スタイルは大切な道具。
章「無目的性と怠惰1」の書き出しに、「怠惰は無目的性の『従兄弟』」という表現があった。自分と怠惰が隣り合わせなことは、実感として知っている。
章「無目的性と方法3終わり」には、うつ病について「無目的性の、最も祝福されないバージョン」と書かれていた。これも、私と隣り合わせらしい。
何かの授業の一環で、好きな言葉、と言われて書き、教室の後方に貼られていた「自然」という言葉。書いたのは小学生の頃だったか。
クラスメイトたちが書いた言葉は「元気」や「勇気」など。元気に明るい未来へ向かいそうな言葉がほとんどだった。
現実としては、失われた世代と呼ばれる大人になり、失われた年が多過ぎて超氷河期と呼ばれるようになり、結局、何十年が失われたのかカウントし切れないが。
書いた当時は、何か間違えたような気がしたのを憶えている。友人たちには違和感なく受け入れられたようだった。が、周囲とは何か異質な言葉を選んだらしかった。
好きな言葉と言われても何もなかった中で、自然自体も、自然なことも良いんじゃないか、と、私なりに考えて選んだ言葉だった。
どこか怪訝な様子の先生にも、そんな考えを簡単に伝えたが、納得したのかどうかは知らない。
ただ、今の私は、そんな頃から無目的性を発揮していたことに気づいた、ということ。
そんなこんなで、身に覚えのある話がたくさんあった本。
自分への理解が深まった感じがした。
ただ、読みやすい本とは言わない。正しく理解して読めた自信もない。
翻訳ものなので、日本語がナチュラルではない。慎重に訳されていることは感じたが、原文が透けるような読みにくさがあったり。
原文のニュアンスは日本語に反映されているのか、反映されているとしても、単純に私が読み取れていないのでは、という不安感がつきまとった。
日本語の、主語と述語の遠さを残念に思ったりもした。()や「」が主語と述語の間に多く、結局、何が書かれていたのか曖昧な理解になったり。
カタカナが多いことで見にくいのは、仕方ないような気がしたが。引用されている人名だけでも多かった。漢字表記の人名は、芭蕉・老子くらいだったか。
読みにくさはあったものの…
何だか身近な話題が多く、読んで良かった、と思う気持ちは変わらない。
こんなところまで、このnoteを読んでしまった人は、「無目的」を読んでしまうのだろうか。
著者は読んでほしくて書いた本だろうが、私はそんな目的で書いたりはしていない。ご自由にどうぞ。
私は偶然、見かけた本を借りて読んだだけ。
それから、こんなところまで読んでしまった人に、ただ心から感謝するだけです。