[ ジョーカー ]とは何かを思ってみる

 以前から観ようと思っていたけれどずっと先送りにしていた映画をやっと観る事ができた。
 2019年公開の映画「JOKER」の事だ。
 当時から非常に反響が大きく、今の世の中の生きづらさを描いた名作と言われていたし、暴力描写を含みながらも興行収入としては成功した映画だ。
 とは言え、この手の映画に付き物なのが「触発された人間が似たような事を仕出かす」という問題で。昔から似たような話は後を絶たない。
 悲しいことについ先日、10月31日のハロウィンの日に京王線で傷害事件を起こした人間が、ジョーカーの仮装をしていたとリアルタイムで大々的に報じられた。「奇抜な色のシャツに緑の髪のピエロ」ではなく「ジョーカー」と名指しされたのである。
「死刑になるために人を殺した」という供述だそうで、「勇気を出すのにジョーカーの仮装をした」とも言っているらしい。また、電車内での犯行や選挙に合わせた犯行が映画になぞらえた物であると言う者もTwitterやネットにはいた。
 報道当時は映画は観ていなかったが、ティム・バートンの「バットマン」での、またクリストファー・ノーランの「ダークナイト」におけるジョーカーを観て受ける印象は、犯人の言う「勇気を出す」仮装としてのジョーカーとはまるで違っているように見えた。
 今回わざわざこのタイミングでこの映画を観ようと思ったのは、その違和感の理由を探りたいと思ったからだ。
 
 初めに断っておくと、この映画のジョーカーはいわゆる(スーパーヴィランの)ジョーカーでは無い可能性が明言されている特異な存在である。
 精神疾患を持ち、困窮した生活に耐えながら常に“人間らしく”生きようとする1人の孤独な男だ。愚痴を言う相手もおらず、周りからは見下されたり煙たがられ、ピエロの仕事もコメディアンの夢も上手く行かない、それでも“人間らしい”生活をめざして険しい階段をゆっくりと登る孤独な男だ。
 そして世間(あえて世間という言い方をするけれど)は“人間らしく”生きようとする努力すら奪ってしまった。あまつさえ階段を転げ落ちた男を祭り上げ、ピエロの化粧と笑い声にジョーカーという名前をつけてしまった。
 そしてジョーカーは自分がされたのと同じように、世間の人々を少しだけ階段から突き落とした、という事になっている。
 というのが、大まかな内容である。
 
 ここで、上に述べた3つの作品でのジョーカーの違いと共通点を考える。
 まずティム・バートンのジョーカーは、背景がはっきりと解っていて、バットマンとの因縁も描かれた、ある意味映画に合わせて調整された悪役だった。
 白い肌に緑の髪、吊り上がった口などのアイコンもそうなった経緯が原作コミックで言及される流れに沿ったもので、ジョーカー以前の人物としても劇中で描かれるという非常に親切な作品である。
 とは言えやる事はなかなかエゲツない。美術館に毒ガスを撒いたり、毒物を化粧品として販売して変死(文字通り!)させたり。また、ジョーカー以前の性格や個性(ギャングのボスの右腕)も描くことでイカれ具合やキレ者さを表現するなど、「愉快犯的な知能犯」として地に足のついた描き方をしている。
 次いで、クリストファー・ノーランの「ダークナイト」におけるジョーカーを考えてみる。
 完全に経歴不明で、当人が語る過去はいつも不安定。己の死すら恐れずひたすら暴力行為を追求して人々を混乱と不安に叩き落とす事を実現する。
「混沌の代理人(agent of chaos)」を自称し、計画を立てたり秩序だった社会を破壊し、その象徴であるバットマンに人を殺させることをある種の目的にしていた。そしてその目的は対外的には達成され、バットマンは長期的に姿を隠すことになる。
 では「JOKER」におけるジョーカーはどうか、と言うといずれのジョーカーにも見られるような顕著な暴力性や(目的を達成させるという意味での)計画性は終盤までほとんど見られない。むしろ周囲に翻弄され、場当たり的に対応せざるを得ない事で自分の置かれる立場がどんどん悪くなるような性格だった。
 初めての殺人も突発的な条件の組み合わせと自衛の為の発砲が原因であり、当人も非常にショックを覚えている様子ではあった。
 そして、ピエロの扮装のまま殺人を犯し、街中に殺人ピエロの話題と「弱者のヒーロー」として祭り上げられる殺人ピエロを見る事で初めてジョーカーを名乗り、ジョーカーの扮装をして行動を起こした。
 行動とは言っても、それすらあくまで結果ではあったが。
 
 こうして比べてみると、共通点は実は多くない。書き出してみると下のようになる。
 ・白い肌、緑の髪、大きく裂けたように見える唇のピエロのメイク
 ・派手なシャツとスーツ
 ・世間そのものに影響を与える劇場型犯罪を起こす(起こせる)
 ・(狂気的である事に裏付けられた)思考の飛躍・混濁・混沌
 これら抽出された要素が同時に発生した時、人は誰でもジョーカーになり得るのかもしれない、と僕は思っている。「JOKER」の主人公は最後のシーンでメイクを落としているけれど、きっとその時はジョーカーではなかったように思えている。
 世間が悪意との均衡が危うくなった時、とある人の思考が混沌をもたらす事に満ち溢れて、ピエロの装束をまとえば、それはきっとジョーカーなのだろう。
 
 では、これらの要素と京王線事件の犯人の言うジョーカーを考えてみた時、どう思えるだろうか。
 己の中に主義もなく、幼稚な理由で犯行におよび、その勇気づけに形に頼る。
 それは果たしてジョーカーと呼べるだろうか。
 
 当然ながら僕は犯罪や悪事を崇拝や信仰したりはしないただの映画ファンだけれど、だからこそ今回の事件や報じ方は違和感を感じる。
 影響力が強いアイコンであることは確かだけれど、そのアイコンが成立するにはそれだけの要素や理由が必要な筈だ。
 今回はこうして並列してジョーカーの要素を考えてみて、そのことの重要性を再確認した。
 それと同時に、この映画を観られて良かった。
 今の暗い世相を反映してか、ダークな作風の映画は増えてきてるけれど、どこか上っ面に暗い雰囲気だけ描いた感じの映画が多い中、ある意味でリアルな雰囲気の閉塞感を感じる映画だった。
 万人に勧められる映画では無いけれど、少なくとも映画を作りたい人や世間について考えたい人、何かを表現したい人は観る事をお勧めしたい。

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