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ヤツらの教え/その1「距離を意識せよ」

生物と無生物のあいだ、と言われるヤツらが教えてくれたこと

私はコロナ禍という言葉が好きではない。嫌いである。なにせ、ヤツらは悪くはないのだ。良いとか悪いとかは、こっち側の都合だ。ヤツらには意図や思想なんてない。「ある」だけ。

ヤツらは存在するために進化を続けているだけ、進化と言ったが、進化なのか変異なのか、どのように表現するのが適切なのかというのも、とても困難な存在たち。それがヤツら。変化するという観点だけでいうと、他の生物と変わらない。

ヤツらは人類に大事なことを教えてくれている。それで助かった人もいるし、困難におちいった人もいただろう。今も苦しんでいる人もたくさんいるだろうから、こんなことを書くのはちょっとはばかられるきもちもあるが、少なくともわたし個人にとっては、悪いことばかりではなかった。

他人との物理的距離感

都会の電車はおかしい。距離感が絶対的におかしい。なぜこんな状態になるまで放置したのかよくわからない。少なくとも自分にとっては、他人との物理的な距離感を取る必要があって、密着した状態で何十分と耐えるような状態は本当に辛いと言うしかなかった。

それがヤツらのおかげで「三密を避けよう」というキャンペーンが始まったことにより、一瞬で解消した。

知らない人と密着した状態でいるのってしんどいじゃないですか。これから性的な行為に及ぶぞ!っていう人ならそれは仕方ないというかお互いメリットがあるから密着するけれど、通勤電車の密着は何のメリットもない。かといって、それを使わないと生活が成り立たなくなってしまうと言う状況があったわけで、なぜそこまですり減らして生活をしなければならないのかと疑問にしか思えなかった。

ある意味では感謝している。リモート環境が許されるのならば、その異常さから逃れることができるのだから。幸いにも、自分はそうだった。

いいこともあった、が…

他人との距離が強制されたはいいが、時差出勤とかいう謎の制度で生活リズムが滅茶苦茶になった。一時的ではあったものの、私の体は耐えきれなかったらしい。

そもそも未知の脅威であるヤツらを自分の体から遠ざけるのに、他人との距離やマスクの着用を強いられることがそもそもストレスだったうえに、勤め先の企業でのウイルス対策本部機能として労働に従事させられ、日々のストレスが蓄積していった。

うつ状態の始まり

気が張っている時には気づかないものだが、そのストレスはどんどんと自分の体、主に脳という重要な臓器を蝕んでいたらしい。気づけば、目の前で起こっていることが理解できなくなってしまっていた。当初は、なぜなのかよくわからなかった。

それが始まったのは、ちょうどお盆休みに入って、こっそり前から行きたかった佐渡へ渡ってツーリングを楽しんだ後だった。その時まではキャンプツーリングとかしとけばストレスなんか全然なくなると思っていた。たしかに、気持ちいいツーリングで思い出深いものになった。

しかし、平時はなにかよくわからないものと戦ってなんだかよくわからない役員の人とかにどうするべきなのか判断する材料を提供しなければならなかったし、休みの日もそんな感じで旅行とかにいってたら、それは体にダメージとして蓄積するのは当然のことだった。

最初は、頭痛がひどいせいだと思っていたので、脳血管がやばいのかなと思ってMRIを撮ってみたりしたのだが、ストレス性じゃないですかね?と言われ、すぐ受診できた精神科では謎の高額電気治療を勧められた。断ったけど、よく断れたなと思う。えらい。

そして数日して、自分の状況を受け入れるに至った。うつだった。うつ状態じゃないですかね、と言われて、戸惑った。だって、まさか自分がそんなことになるなんて思っていなかったから。

これもヤツらのせいなのではないか・・・と当時は思っていたが、今振り返って思うと、自分の疲労の蓄積を無視してツーリングに行ったり遊んだり無理をしたりということがよくなかった。

他人や社会との距離感はうまく測っていたつもりだったが、自分との付き合い方が、距離感がわかっていなかった。 

自分自身との距離感と言われても、健康な人にはなんのことなのかわからないかもしれない。自分自身の状態を客観的に判断する能力と言ったらいいかもしれない。これは一生を通じて必要がない人もいるかもしれないし、必要になったときには大変なことになっていることが多いんじゃないか。

だから、いろんな人に、自分との距離感を意識するということを、啓蒙していきたいような気がするが、そんな崇高なこともない。自分自身の健康を保つために必要なこと、というだけである。

なんか、つづくのかもしれない。

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