恩師との想い出
私の職種で知らない人はいない
バイスティックの7原則
それを日本に取り入れた中心メンバーの1人
尾崎新先生
大学を卒業してもう10年以上経ち
今更先生の本を片っ端から読んでいる。
ジーパンに、整えない灰髪。
新設された教授棟が禁煙だが、先生は何処か煙草の香りがした。
授業がつまらなければ平気で抜けるような学生だった私は、当然先生がこの界隈で著名な方なんて知らず。
後ろから席の埋まる教室の、いつも左側前から三列目に1人座り、食い入るように話を聴いていた。
先生の話は抽象的であり時に陰鬱で、学生たちのウケは決して良くはなかったが。
多分何か惹きつけるものがあったのだろう、だけど当時の私は思想に思考も体験も言語化も追いつかず
ただ、只管。
先生の話を聴いていた。
はじめて研究室を訪ねたのは、交際相手との間に子供を授かったこと、体調が優れず欠席するかもしれないことをお伝えするためだった。
先生は嬉しそうだった。
自分が大学生の頃は学生運動の真っ只中で
君みたいな学生が沢山いたんだよ
僕の講義は胎教に悪いから休みなさい
単位は学生課に僕が相談するから
そう目尻を下げて、授業よりも饒舌に話す先生に少し驚きながら、私も笑った。
何もかも状況の整わない中、産み生きると決めた私に対し、
生まれてくる命と教子が母になることに、何の疑いもなく向けられたよろこびに、
妊娠がわかって以来、私は初めて、安堵した。
その後暫く先生と話をし。
その後私は徐々に大きくなるお腹で、後ろから席の埋まる教室の、いつも左側前から三列目に1人座り。
食い入るように話を聴き。
いただいた評価は、先生は多分、あの日に既に決めていたんだろう。
先生との対話はあの日が最初で最期だった。
私が卒業した翌年。
教壇で倒れ、搬送された病院から還らなかったと聞いたのは、先生が亡くなった7年後のことだった。
何の因果か、たまたまこの現場で働くようになり。
10年以上が経ち、何度も何度も転んで、何度も何度も起き上がって。
漸く先生に話したいことが沢山あるのだけど、もう対話することはできない。
先生、大学卒業して、10年以上かかって。
やっぱり、私は出来の悪い学生です。
先生の話していたこと。
現場で体現し続けることの難しさ。
支配から自由であること。
個を保ちながら調和すること。
全部全部あの時に先生が話していたこと。
それが、漸く、腑に落ちて、私の身体の一部になった。
あの日いただいた評価は、やっぱりまだ受け取れません。
この身体と思想によって次元へ展開していく。
いつかそのテーマで対話した時に、あの日の講義が意味あるものであったか改めて評価してください。
亡き人を、想う