「この院生はノーベル賞を授かる」とアインシュタインが評した論文(1924年)その2
その1のおさらいをしましょう。年表化したほうが分かりやすいかな。
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1913年 ニールス・ボーア(丁抹)が画期的な原子模型(モデル)を提唱
1914~1918年 ヨーロッパで大戦。このあいだ多くの若手科学者が兵役に。
1919年 レオン・ブリルアン(仏蘭西)が兵役を終えて研究再開。「第二の波」論を提唱。
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つけくわえるとアルベルト・アインシュタインが1915年に一般相対論(と後に呼ばれることになる理論)のあの方程式をとうとう導出し翌1916年に詳細な論文を発表。彼は同僚科学者たちと違ってドイツ万歳戦争勝利の熱い盛り上がりには距離を置いていました、まるでドイツ敗戦を見こしていたかのように。1918年暮れに大戦がようやく終わり、翌1919年にはえげれその天文学者アーサー・エディントンが「長い戦も終わったことやし、科学の世界に戦勝敗戦もあらへんのやから、ここはひとつ皆でいっしょにでっかいことをしようやないですか。今年(1919年)5月に皆既日食が南米からアフリカ大陸にかけてあるさかい、各国から観測チームを各地に派遣して、アインシュタインの相対論がほんまに正しいのか、観測で確かめようやないですか」と花火を上げました。
太陽の向こう側にあるので絶対見えないはずの星が、皆既日食のときに見える!とアルくんは一般相対論のアイディア段階ですでに公言していました。方程式完成後さらに大胆に「わしの計算では日食にあたってこういう星がこのあたりに見えるはずや!」と予想位置を算出していたので、アーサーくんが「よっしゃ写真撮影で観測してみたろ」と各国の科学者たちに呼びかけて南米とアフリカ大陸各地に観測撮影チームが向かい、撮影されたものを突き合わせてみてアーサーくんが(多少フライングも混じってましたが)「アルくんの計算どおりや!」と判定して、世界的ニュースに。これは有名な逸話なので皆さんもどこかで目にされたことがあると思います。
長年の大戦でヨーロッパ全体がへとへとになってしまったなか、人類みなきょうだいな理想のシンボルとして、アルくんと一般相対論がカリスマ化したというところです。
大戦が終わったことで兵役から解放された若手科学者たちは、大戦前に提唱されていたいろいろな新説の検証や拡張にようやく取り掛かることができました。前回ぶんの後半でご紹介したレオンくん(仏蘭西)がまさにそのひとりでしたし…
今回改めてご紹介するルイ・ド・ブロイくんがやはり兵役より解放されて科学研究に本腰を入れたひとりでした。ソルボンヌ大学で勉学にいそしむなか、いくつか面白い論文をものにしています。
1922年(当時30歳でしたか)「干渉と光量子論について」("Sur les interférences et la théorie des quanta de lumière")
ああやっぱりフランス語のほうが私には読みやすいですドイツ語はごつくで苦手です。前に述べたようにこの頃の物理学界はドイツ中心で回っていて、フランスはすでに辺境寄りのポジションでした。この後もっと辺境化していくわけですがその話は置いといて、ルイくんはこの15頁足らずのブツのなかで面白いアイディアを提唱しています。アインシュタインの「光量子」を原子にみたてて、それが群れなして「光の分子」を形作っていると仮定したら、なんか面白いもんが出てくるんちゃうか、と。
黒体放射の理論については前にお話したのかな? ちゃちゃっと説明すると、物質は高熱になるほど、放射する光の変化ぐあいが同じ風になるという理論です。鉄でも何でも、何千度かを超えると、放射する光の変化と温度上昇が一致する、どんな物質であろうが一致ぐあいは同じだよん、と。
製鉄といえばかつてはイギリスでしたがドイツは長年かけて工科大学を充実させていたおかげで、イギリスのように職人的経験ではなく科学原理から製鉄産業を発展させていました。すなわち製鉄の観測データが豊富なぶん熱と光の関係研究がぐんと進んで、黒体放射の理論が発展したと、そんな風に歴史イメージしてください。
そのなかから「空洞輻射のエネルギーの揺らぎ」という研究テーマが現れました。製鉄用ボイラーのなかを光がカコンカコンと飛び交っていくなかの総エネルギーが微妙に揺らぐ現象を、うまく数式にできないか…19世紀後半より、ドイツのいろいろな物理学者が挑んできました。
ルイくんはその数式が、こういう風にだんだんと精度の高いものに洗練されていったんよと論文中で紹介していきます。
下のページの、上の赤のが、マックス・プランクくんのもので、下に矢印(青)で続くのが、アルベルトなアインシュタインくんのものです。これをルイくんは完成形とみて…
ここよりルイくんは、べき級数という数学の技を使って、こんな数式を導出します。
この式の中に「e」って出てきますね。これは数学における原子みたいなものです。これ以上はいくら微分しても微分できない、微積における原子みたいな存在。
(厳密には「e^x」の形式になりますがこのブログではうまく表示できないので「e」で済ませますね。どうせ高校数学で習うし)
それを元にして分子にあたるものを作り「+」記号でつなげていくと、どこまでも続いていく無限化学式とでも形容できそうな数式に変貌します。項は無限に続くけれど、すべての項が同じ形をした分子の連鎖なので、かえって微積計算しやすいのが利点です。
こういうのを「解析学」といいます。DNAらせんの数学版とでもイメージしていただければイメージできます。
おっとお話が数学に傾いてきたので話を戻します。ルイくんが導出してみせたくだんの数式…
これをルイくん、例の「h」(プランク定数)を活かして、こんな式を導出します。
ああちなみにこの式は「エネルギーのゆらぎ」を表したものです。ルイくんにいわせると「E₁ は量子 hv に振り分けられるエネルギー、E₂ は量子 2hv(光の二原子分子)と言う風にそれぞれ対応する」("Le premier terme E, correspondrait à l'énergie divisée en quanta hv, le second E. à l'énergie divisée en quanta 24v (molécules de lumière à 2"), et ainsi de suite.")としていますね。
ここで、このページを眺めなおしてみましょう。二つ目の赤のが、アインシュタインの式です。
アインシュタインの式、拡大するとこんな風。
エネルギー揺らぎを表す式です。1911年の第一回ソルベー会議でアルくんが発表したものです。
この式の右側(緑)は干渉効果のゆらぎ、すなわち「波」を表すものです。一方、左側(赤)についてルイくんは「光子の集合体」と解釈しました。
光の粒子性と波動性の両方を示すのが、このアインシュタインの式(1911年)である、と。
ルイくんが導出した、先ほどの式(下に再掲載)が、上のアインシュタイン式の赤部分にあたるのは、見てすぐわかると思います。
このことをルイくんは「光が粒子的であるからこそ波動的でもあることの証」すなわち「双方は矛盾するどころか互いに欠かせない特性である」という意の主張を、本エッセイで取り上げている1922年論文で行ったのです。
さらに面白いのは以下の主張です。論文冒頭でかましてきます。「マクスウェル方程式は不完全である!」と。
「旧来の波動説と光量子説の統一される暁には、マクスウェル方程式は、輻射エネルギーの不連続的構造を(すべての場合とはいわないが多くの場合において)連続近似として表したものとして再解釈されることになるであろう。ちょうど流体力学における連続性前提の方程式がまさにそういうものであることを想起されたい。流体といえどもその微細においては原子であるものの、人間にとっての現実スケールにおいては流体そのものであり、流体の運動として数式記述されている」
この主張というかイメージは、無名時代のアインシュタインが光量子説と光速度不変原理をそれぞれ違う論文で1905年(いわゆる「奇跡の年」!)に訴えたとき、彼の頭の中にあったイメージと、大きく重なるものです。
ルイくんがアルくんの血を色濃く受け継いでいるひとりであることを感じさせますね。この2年後(1924年)にアルがルイの論文(のドイツ語訳)に目を通して「こいつ博士号ではなくノーベル賞にこそふさわしい」とルイの指導教官たちにコメントしたのも、彼が自分と同じ思考回路の人間だと感じ取ったからではないかと私は感じ取ります。
時計の針を1922年に戻します。この年ルイくんは、もうひとつ非常に興味深い論文を書き上げます。光量子…もはや光子と呼んだ方がいいのかな、光子にはわずかに質量があると仮定して(「あるわけないない」と私たちがこの仮定をコケにできるのは後世の人間だからでしかないです)議論を進めていって、そのせいで途中からわけわかんなくなっていくという内容でしたが、とある革新的アイディアの芽が、そのなかから現れたのです。
うううド・ブロイ波の論文(1924年の博論、アルひとりが賞賛したというアレ)にまで話がなかなか進まないよパパー。次回に続く。