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心許なさと、ないはずの限界と。
教育の現場にいると、心許(こころもと)ないという自分の感情に触れることがある。そんな時はいつも、僕の頭には限界という言葉がチラついてきた。
その子の過去や今の環境。目の前の子には多様な背景がある。その子が望んだ時には、そのすべてをそのままに話したいと感じてもらえるような、そんな存在でありたいと僕はいつも思っている。目の前のその子が感じていることや考えていることなど、その子が見ている世界をそのままに知ることができることって、僕にとってとても愛おしい瞬間で。ずっとずっと、この気持ちや姿勢は大切にしていきたいって心から感じている。
お話を聴ききった後には、時には一緒に解決策を探したり、時には一緒にこれからの行動を考えたりする。この時に一緒に選べる未来は、無限大だ。
…無限大のはずなのに。
その子を取り巻く環境の心許なさに触れた時、僕は「心からの言葉を保護者にとどける」という選択肢を無意識下に排除していたと気がついた。
「お母さん、その言動はよくないなって感じたんだけど、どう思う?」
「お父さん、その考えって子どもに押し付けてない?」
例えばもし僕が安西先生みたいなどっしりとした存在だったとしたら、こんな切り口から保護者とコミュニケーションを取りたいなって思う瞬間が確かにある。
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あれれ?でもこれって今の僕でも取ることができる選択肢だよなって、自分に問いかける。うん、そうだ。今の自分にだってできるじゃん。
できない理由/しない理由は、たくさんつくることができる。「家庭環境にまで口を出すな」とか、「そもそもそれは学校の先生の担う仕事じゃない」とか。でもこれって、自分の本心を隠す思考でしかなくって。
教育という観点からより正確に話すと、「目の前の子の欲求・要求としてHELPを求められた時 / HELPを先生として感じ取った時」に、その声にこたえようと行動を取ることが大事だと思っている。本人の意思を無視して、なんらかの解決を先回りして勝手に目指して、その子を取り巻く関係者にアプローチをすることは、よいとは感じていない。
そのはずなんだけど、後者がよいと言える瞬間も時にはあるんじゃないかって、僕は直観している。
「目の前の子にHELPは求められていないけど、HELPの手を差し伸べたい。その必要もある。」と確信をした時僕は、「でもこの子は助けを求めているわけではないから」という思考のもと、今この瞬間の自分の確信にフタをしようとしてしまう。助けを求められていないのに動くのは、エゴでしかないからって。必要って、誰が勝手に言っているんだって。
潜在的に感じている気持ちに寄り添うことを僕は大切にしているはずなのに、目の前の子本人が自覚していない「環境の心許なさ」に触れた時、僕はそこから先に踏み込むことを躊躇してしまっていた。よいと直観する言動をとらない言い訳づくりとして、教育の実践理論を使ってしまっていた。
確信が理論をかたちづくるのであって、理論を確信を否定するだけのものになり下げさせるのは決してよいとは言えないのに。
目の前の子の本心を聴いて、そこから一緒に未来をつくっていくことの先に“よりよい教育”はきっとある。これは確かだと思う。
でも僕は、「顕在的な本心」と「潜在的な本心」がもしあるとするなら、目の前の子の「潜在的な本心」を起点に、保護者等のその子を取り巻く関係者にアプローチをすることを、必要以上に恐れていたみたいだ。
この大切なことに気づかせてくれたきっかけが、僕にとっては「心許ない」という感情だった。
自分が無意識下に消してしまている選択肢に、これからはもっと大切に目を向けていきたい。本当はそこに、限界なんてないはずだから。
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