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「評価のひの字」も介さない世界の中で。
僕には、人のどんな瞬間をも美しいと感じる感性がある。
目の前の人がどんなことを考えていても、感じていても、その一つひとつが、その変容が美しいと感じる。
この感覚が僕にとっては当たり前で、この感覚をもって僕は生徒と関わっているだけだったりする。もっと正確にいうと、ただ「人」と関わっているだけの感覚。生徒に対して「その『子』」って言葉をつかう時には、違和感あるんだよなって感じたりしながらその言葉を選んでいるくらいに。
だから僕には、生徒と関わる中でその子を評価する思考が頭をよぎることは全くといっていいほどない。だってずっと、目の前の子は美しい時間を過ごしているのだから。その変容自体が素敵なものだから。(早速「子」ってつかってる。)
学園長って肩書きがある僕だけど、この姿勢を大切にしているからこそ、生徒にとってはいい意味で学園長らしくない存在として見てもらえているのかなって思う瞬間も多い。自分の感じたことや考えたことをそのままに表現できている今の関係性に、僕は愛おしさを感じている。
で、ここからはちょっとした気づきというか。
僕はこんな風に「評価のひの字」も考えていない存在だけど、役割によってそう受け取ってもらいづらくなる瞬間もあるんだなってことについてちょっと考えてみる。
この土日、僕は「オレンジデイズ🍊」という学生起業プログラムに企画運営者として携わった。メンターとして僕はあるチームに参画し、チームメンバーと一緒に2日間を過ごした。
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メンターとして誰かと関わる時と、学園長として誰かと関わる時。
まず僕の心の中で、無意識的にもハッキリした違いがあったなって感覚。
普段学園長として生徒と接する時、僕はその一瞬一瞬に没頭している。ただ目の前のその子とのコミュニケーションに集中をしていて、余計なメタ認知が入らない。ちょっと教育的な言葉を使うと、〈自由〉と〈自由の相互承認〉を北極星に他者と関わることは僕の人生の中で当たり前になっていて、その意味でそのままの自分として、いつも生徒と関わることができていた。
だけど今回メンターとして参加者と接する時、僕はほとんどの瞬間をメタ認知しながら過ごしていた。
何が違ったのかなと考えてみると、きっと「長期」「短期」という視点なんだろうなって僕は整理をしている。学園長として生徒と関わる時は「長期」を前提としたコミュニケーションをとっているけど、今回のメンターとして求められたのは2日間という「短期」を前提としたコミュニケーションだった。2日間という時間で学びを最大限に得てもらうために、全力で思考をしながら自分の立ち位置やとどける言葉を決めていっていた、そんな感覚。
「何を感じ考えている存在なのんだろう?」
学びの最大化に注力をしていたメンターとしての僕は、きっといつもよりもそう感じ取られる存在になっていたと思う。でも僕は、ただ参加者一人ひとりの過ごしている今という時間に、美しさを感じていただけだった。
ここにきっとギャップがあった。
「評価のひの字」も頭をよぎらない僕だっただけど、学びの最大化を目的に発する言葉を選んでいた僕は、時には参加者から「今の状況はよい/悪い、どう判断されているんだろう?」と気になられる存在になっていた。
この気づきから、あえて抽象化をして学びに繋げたくはないなって今は感じている。ただここで言葉にしたことを認知し、そのまま自分の中でしまっておきたい、そんな感覚。
評価をする存在って僕は思われたくないんだな、みたいな、そのくらいの整理でとどめておきたい。どんな感情も思考も、大切で、美しくて、素敵なものなんだよって、そう伝えたいって僕は全身で叫んでいるのかもしれない。
いや、きっと叫んでいる。
ただそれだけの想いで、僕はここまでの言葉を紡いできたんだと思う。
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