
ゲルハルト・リヒター:警鐘としてのビルケナウ

ゲルハルト・リヒターは、彼の最高傑作と言われる4枚組の巨大な抽象画:ビルケナウにおいて、ホロコーストにまつわる写真を反転させ、模写したうえで塗り潰してしまっている。
“表象の信用できなさ”に対する問題提起を続けてきたリヒターだが、現在92歳の彼は、現代の我々に重大な問いを投げ掛けているように思える──ホロコーストを実際に経験した人々が誰もいなくなった世界で、その恐ろしさと教訓を伝え続けることはできるのだろうか?
表象への猜疑心
まず『ビルケナウ』という作品について語る前に、リヒター作品に通底する特徴について再確認しておこう。
彼は基本的に、人は外観を見ただけでは物事の正しい意味や内容を理解できないという事実を鑑賞者に突き付ける作品を制作している。この世のあらゆる政治的・芸術的イデオロギーに強い猜疑心を抱いているリヒターだが、その根底にあるのはファシズムから受けた様々なトラウマである。
それに関しては説明しきれないほどのエピソードが存在するが、ここでは割愛する。いずれにせよリヒターは、信頼していたものがことごとく崩れていった経験の数々から、表象を妄信することの危険性に極めて敏感である。
美麗な具象絵画の持つ権威性、写真の持つ真実らしさ、抽象画の純粋らしさ。リヒターはこれら全てを信用することなく検証・批判し、視覚的にも内容的にも捉え難い作品を制作してきた。そうして彼は、我々は何もまともに見ることができていない、という事実を可視化していくのである。

2014 July 14 - August 25
タイトルの裏にある意味
4枚組の大作『ビルケナウ』は、まずその圧巻の迫力によって鑑賞者を魅了する。スキージーを縦横に走らせ、油絵具を画面に擦り付けることによって生み出された色彩と質感の衝突が、いつまでも見続けていられるほどに豊かで複雑な画面を構築している。
だがリヒターは、まずその画面にアウシュビッツ第2ビルケナウ強制収容所で撮影された写真を油絵具で描いた上で塗り潰している。
それは1944年、ポーランドの反政府組織から提供されたカメラを使用してゾンダーコマンドが命懸けで撮影したホロコーストの証拠写真である。
つまり『ビルケナウ』は、荘厳なプロパガンダの裏で身の毛もよだつ恐ろしい行為を行っていたナチスを連想させる構造になっている。我々はそれを観るとき、その背後に覆い隠されたイメージの存在を知っていてもなお、表面の抽象空間に魅了されしまう。その鑑賞体験はまさに、ナチスの提供する偶像に魅せられ、(その危うさをうっすらと認識しながらも)彼らを支持していた当時のドイツ国民の感覚と同じなのである。

説明を受けた後でその色彩を見ると、緑は強制収容所を周囲から隔離していた深い森を、赤と淡いオレンジは血と肉を暗示しているのだと気づくかも知れない──そして白黒が混ざっているが故に、よく見れば塗りつぶされたイメージが浮かび上がって来るのではないか、という淡い期待を抱いてしまうかもしれない。だがこの作品を解説なしで理解すること、画面を透視することは根本的に不可能である。
つくづく我々は、ものごとの表象(semblance/shein)しか見ることができない。そして、こんなにも簡単に表象に踊らされてしまう。リヒターは人間の視覚における致命的な弱点を鑑賞者に自覚させるのである。

記憶が歴史になるとき
さらに『ビルケナウ』は、アーカイブに関する問題も浮かび上がらせる。塗り潰された具象画はもはや実際に見ることはできず、手掛かりになるのは制作過程を記録した写真だけである。
これと同様に、ホロコーストという歴史的惨事を生き延びた人、また同時代を過ごした人々が全員亡くなってしまったあと、次の世代はそれらを記録や資料から間接的に知ることしかできなくなる。“忘れてはならない”20世紀の記憶は、世代が完全に入れ替わる21世紀中盤からは“想像することしかできない”歴史に変わるのである。
どちらも、その経緯と文脈の解説を含めて保存し、継続的に展示していかなければ、簡単に理解不能なものになってしまうだろう。
また『ビルケナウ』は、基本的に、実物と同サイズの複製:Birkenau(Photo version) と対になって展示される。
その画面は極めて高解像度に撮影・印刷されているため、ほとんど実物を観ているのと同じ感覚で鑑賞できてしまうだろう。
だが、そこに印刷されているのは作品の表面だけであり、最も重要であるはずの下地に描かれた図像は完全に消失してしまっている。
どんなに表象を正確に複製しても、その作品/事実の本質まで複製することはできないのだ。

表象のゆがみ
さらに『ビルケナウ』は、Grey Mirror [CR 751/1-4], 1991と合わせて展示されることが多い。
ミラーもまた、“表象の信用できなさ”を告発しようとするリヒターにとって重要なシリーズ作品のひとつである。なぜならそれは、カラーフィールドペインティングが主張するような純粋さ・崇高さを真っ向から否定しているからだ。
その画面は完璧に平坦な単色で塗られているが、その表面を覆う鏡面処理されたガラスには、周辺の空間、そして鑑賞者自身が映り込んでしまうため、作品だけを純粋に鑑賞することはできない。
実際に全てのアート作品は、その展示空間の状況と権威性に強い影響を受ける。さらに我々鑑賞者は作品に自分自身の思想や想像を投影し、本来の意味をゆがめて受け取ってしまうものなのだ。
しかもグレーは、全ての色をくすませて曖昧にする。その巨大なミラーの表面に『ビルケナウ』/ビルケナウの複製/そして会場を歩き回る鑑賞者が同時に映りこむと、もはや何を観ているのかわからない混沌とした表象が生み出される。まさに、全てが"グレー"に見えてしまう現代の情報化社会そのものである。
ビルケナウの達成と限界
このようにリヒターは、『ビルケナウ』という作品、およびその展示方法に象徴的な意味を込めることで、ホロコーストの恐ろしさとその背後にある様々な問題について沈黙したまま雄弁に語りかけてくる。視覚言語の可能性を最大限に引き出した本作がリヒターの最高傑作と呼ばれているのも納得である。
だが本作には根本的な欠点がある──これらの含意はほとんど伝わらないのだ。理解困難性こそが『ビルケナウ』のテーマではあるのだが、だからといって本当に一部の人しか理解できないまま放置されて良いはずがない。
ましてや『ビルケナウ』が当時のナチスを想起させる構造になっているのなら、なおさら我々は本作に込められた含意を見落とすわけにはいかないだろう。
我々が視覚芸術を通して行なうべきことは、読解力を誇示して優越感に浸るための暗号ゲームなどでは無いはずだ。難解で深遠な作品を分かりやすく言語化するという“野暮”な行為こそ、いま本当に必要とされているのではないだろうか。
ところで私は『ビルケナウ』に関するテキストを可能な限り探し回ったが、比較参照できる文献が想像以上に少ないために、これまで長々と述べてきた作品解釈が妥当なのかどうか、正直なところあまり自信がない。(リヒターの活動はあまりに長期間かつ多岐に渡るので、識者のリヒター評もピントがボヤけてしまう様である)
──おいおい、だとしたら今まで読んできた文章は、主観的な妄想で歪んだでまかせに過ぎないのではないか?自分ならばもっと上手く信用に足る文献や資料を探せるのではないか?──
この記事を最後まで読んだあなたがそう感じたのならば、少なくとも私は警鐘を鳴らすことに成功したのかも知れない。