現代絵画における対話と誤解
絵画の内容とは
絵画における内容とは、作品に込められた様々な意味、文脈、知識、技術のことである。
そもそも絵画は鑑賞者の視線と関心を捕まえる方法を探究する領域であり、視覚的な説明・解説はそこまで得意としていない。だがそれならば、現代絵画は理解されない、伝わらないという困難にどう対処しているのか?無難で分かりやすいことしか表現していないのだろうか?もちろん違う。むしろその逆である。
過激、難解、異質、複雑。本来ならば理解されにくい物事を表象し、大衆に向けて提示する方法を探求してきたのが現代絵画なのだ。
以降では、作品の内容をコンセプト・表象・コードの3つに分類して、制作時のポイントについて検討していきたい。
コンセプト:
コンセプトとは、作品の基本構想である。コンセプトは今までに培ってきた知識、技術、思想などによって構築されるもので、制作の動機や目的そのものであったり、作品制作における様々な選択や判断の根拠であったりする。
強固なコンセプトを持っていることは重要だが、コンセプトを説明することよりも、コンセプトを魅力的な絵画へと昇華させるアイデアを探究することの方が重要だ。絵画が得意とするのは鑑賞者の視線と関心を惹き付けることなので、説明に使用するのは単純に勿体ないと言えるだろう。
また、コンセプトはあくまでも作品の魅力を支える基礎や地盤のようなものなので、必ずしも鑑賞者に理解させる必要はなく、視覚的に表現できるとも限らない。
表象:
表象とは、鑑賞者の関心を惹きつけると同時に想像と思考を促す図像である。
デザインでは瞬間的・感覚的に意図を伝えるため、明確で単純な表象が用いられる。しかし現代絵画が扱う内容は、より繊細で捉えがたいものであったり、難解で複雑なものが多い。これらは鑑賞者にじっくりと考えてもらうべき物事なので、はっきり表象すると逆に誤解と軋轢を生んでしまう。
また、作品に詰め込む視覚情報にも適量がある。あまりに冗長で説明的になると、誰も関心を持ってくれなくなるだろう。画家はこれらの課題を認識した上で、表象すべきものと表象すべきではないものを取捨選択し、省略と抽象化をおこなう必要がある。
コード:
コードとは、表象の中に埋め込まれた、特定の人にしか伝わらない情報である。
鑑賞者は作品に表象されたものを鑑賞するが、その全てを理解できるわけではない。
特に、その図像と形式が帯びている文脈、背景知識、ニュアンスなどは、同じ文化を共有している人にしか読み解けないものが多い。
コードの存在に無自覚なまま、内輪で通用していた表現をそのまま大衆の前に提示してしまうと、真意が伝わらないだけでなく予期せぬ意味を帯びてしまう可能性がある。
逆にコードを自覚的に使いこなせたならば、一見すると無難で親しみやすい表現の裏に、分かる人にだけ分かるメッセージを暗号の様に埋め込むことができる。
表象と過剰表象
鑑賞者は基本的に、作品の表象しか観ることができない。作品に込められたコンセプトとコードを読み解く際にも、手掛かりになるのは表象だけだ。そのため鑑賞者は表象を読み違え、絵画に込められた意図と文脈を誤解することがあるが、その原因をどう解釈するのかが重要だ。
誤解の原因を鑑賞者側の過剰反応や読解力不足だとみなした瞬間に、問題の解決はほぼ不可能になってしまう。公共に展示される以上、絵画は鑑賞者を選べないからだ。画家としての反省と改善を積み重ねない限り、誤解は起き続けてしまうだろう。
絵画工学では鑑賞者の誤解の原因を、表象の技術的な失敗:過剰表象であると解釈する。
過剰表象とは、行き過ぎた表象が誤解や誤読を誘発したり、意図せぬ意味を帯びてしまう状態である。
この観点から誤解の原因を紐解けば、過去の優れた表現手法を参考に様々な予防と対策が可能になるはずだ。
結論から言うと、そもそも絵画は理解されなくてもよい。
視覚芸術はあくまでも、鑑賞者が何かに出会い、それについて考えるきっかけを与えているに過ぎない。その何かが理解困難なものであったなら、絵画もまた理解困難であるべきだろう。理解困難な物事は簡単には理解できないという当たり前の事実を突き付けるのが絵画の役割なのだ。分からないという結論も、ひとつの誠実な理解のかたちである。
一方で過剰表象は、本来は理解困難な物事を、まるで理解可能なものとして扱っている状態だと言える。
『自分は理解できている、自分の解釈は正しい』という錯覚を誤解と呼ぶならば、画家の誤解に基づいた表象が、鑑賞者の誤解や反発を連鎖的に引き起こしているのだ、とも解釈できる。
視点の共有
それでも作品を通して何かを伝えたいならば、鑑賞者との間にある文化と価値観の壁を乗り越える表象が必要になる。その鍵となるのが、鑑賞者を深い想像へと導く疑似体験──視点の共有である。
それは絵画が伝統的に得意としてきたものでもある。例えば写実的な風景画を観た鑑賞者は、必然的にそれを描いた画家と同じ視点から空間を眺めることになるので、時間と場所を共有したかの様な没入感・臨場感を得ることができる。
現代絵画はこの様な空間的疑似体験を社会的・感情的な領域へと拡張して、『自分には世界がこう見えている』という視点を鑑賞者に共有する方法を探究している。
同じ風景でもどの位置から見るかによって印象が大きく異なるように、この世のあらゆる物事は、どの文化圏・社会階層・精神状態から見るかによって全く違う側面を見せる。そのため、こちらの視点が唯一の真実であるかの様に説明・解説してしまうと、鑑賞者は自分の視点を無視・否定されたと感じる。これでは誤解どころか対立が生まれてしまう可能性が高い。
一方で、鑑賞者が異なる視点の存在に気付き、そこから見える景色に興味を持ったなら、有意義な対話が始まるきっかけとなるだろう。対話には想像力が必要不可欠である。鑑賞者にこちら側の視点を想像してもらえる状況を生み出すには、画家もまた鑑賞者の視点を深く想像しなければならない。
お互いの視点と盲点に気付き、想像するための対話。視覚芸術なら、それを促すことができる。
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