【意訳】なぜクリフォード・スティルの作品は30年間も隠されていたのか
Why Clyfford Still's art stayed hidden for 30 years
クリップソース: Why Clyfford Still&apos
※英語の勉強のためにざっくりと翻訳された文章であり、誤訳や誤解が含まれている可能性が高い旨をご留意ください。
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1980年、抽象表現主義のペインター、クリフォード・スティルの死去に伴い、今まで飾ることも展示されることもなかった彼の全作品は即座に倉庫に保管され、公共の場から隠された。それから30年間も鍵が掛けられ続け、彼の作品はアートワールドにおいて最も固く守られた秘密のひとつになった──そう、今までは。
コロラド州デンバーの中心地にクリフォード・スティル美術館が建設され、先月(2011年11月)から開館している。こうして遂に、825点の絵画と1575点の紙作品(彼の作品の94%を占める)を観ることが世界に許された。ジャクソン・ポロックはスティルを、絵画の根本的性質を変える義務を負う3人のひとりに数えていた。(そこにはマーク・ロスコと、もちろんポロック自身も含まれている)
では、なぜスティルはそこまで重要なのか?なぜ彼の絵画の再登場にここまで長い時間が掛かったのか?なぜ最初に作品は隠されたのか?そしてこれが最も興味をそそられる点かもしれないが──クリフォード・スティル美術館のこけら落としで共同キュレーターを務める批評家のデヴィッド・アンファムは、なぜ“スティル作品は他のアーティストと違って即座に高揚感を与えてくる”と感じるのだろうか?
この美術館のクリフォード・スティル作品だけを展示するというコンセプトは、スティル本人と妻のパトリシアによるものだ。彼はコレクションの取り扱いに関する厳しい条件を遺書に書き残していた。その要望は3つだ;
スティル作品は美術館ではなく市に寄贈せねばならない。コレクションは一緒に保管せねばならない。作品に完全に集中してもらうため、収蔵する美術館は本屋やカフェといった余計な施設を持ってはならない。
スティルは自分の作品についてこう語っている。“これらは普通の感覚で描かれた絵画ではなく、生と死の怖ろしい融合によって生まれているのです。”かなり厚かましい言葉に聞こえるが、スティルのキャンバス作品(その多くは10フィート✕14フィート)を体験すれば、彼が生み出そうとした力を感じ取れる。スティル作品から受けた影響についてアンファムはこう語る。“彼の作品には理屈抜きのインパクトがあり、私や鑑賞者を見つめ返します。まるで帯電しているような、心底身震いさせてくれる感覚。彼のようなアーティストはそう多くありません。ですが、私の心を掴むのはその高電圧のドラマだけじゃありません。その強烈さと敏感さ・脆弱さを巧みに組み合わせているところも見どころなのです。”
スティルは抽象表現主義者で、ポロック、ロスコ、デ・クーニング、フランツ・クライン、バーネット・ニューマンらと同じく戦後アメリカのアーティストの輪の中のひとりと考えられていたが、スティルは自分自身を少し部外者だと感じていた。その当時、抽象表現主義者たちは一般的にカラーフィールド・ペインター(ロスコやニューマンなどの平坦な色面の絵画)かジェスチュアル・ペインター(ポロック、クライン、デ・クーニングなどの身体的な絵画)に分類される傾向があったが、スティルはパレットナイフによる暴力的な絵具の乗せ方と広大に拡がる色彩表現を組み合わせることで、作品が型にはまり、陳腐な表現に落ち着くのを拒否していた。
ここにはスティルの絵画人生を語る中で2つの重要な転機となる作品がある、とアンファムは語る。“ひとつめは1944という名で知られている作品で、おそらく後の抽象表現主義と呼ばれる絵画の特徴が最初にはっきりと現れた作品です。この大きな黒い色面の絵画の早熟さと過激さに、当時のポロックとロスコが全く追いついてなかったのは確かです。スティルはこの作品を2バージョン描いていますが、MoMAがその2つ目、僅かに小さくて少しくっきりしている方を所蔵しているのは嬉しいことです。
一方でクリフォード・スティル美術館は1つ目を所蔵しており、その画面には隅々までスティルの特徴が見て取れます。スティルの2つ目の転機であろう絵画はNY州バッファローのオルブライト・ノックス美術館にある1957-Dという名の作品でしょう。なぜこの作品かというと、パブリック・コレクションであり、抽象表現主義において最も象徴的な作品のひとつになっているからです。クリフォード・スティル美術館は1957-Dと同等かそれ以上に良い絵画を沢山所蔵していますが、この一点を除いて一般公開されてこなかったのです。そういった隠された秘宝を徐々に公開し、大衆の目に触れさせること。それがクリフォード・スティル美術館の持つ多くの使命のうちのひとつです。”
スティルはとても硬派な人生を生きた。カナダはアラバマ州の草原で生まれ育った経験が、彼の性格と外れ者としての生き方を形成していた。
“1950年代に彼は全ての美術批評家を強く嫌悪しはじめました。中でもNYヘラルド・トリビューンで執筆していたエミリー・ジェナウアーを強く嫌っており、スティルは彼女に「これであなたの日曜日の悩みを隠せると良いのですが。 敬具 クリフォード・スティル」というメモを添えて、2つの幼児用ゴムパンツを送りつけています。彼女はそれを保管し、最終的にはそのおむつをアーカイブ・オブ・アメリカンアートに寄贈しました。アーティストが同様のことをロベルタ・スミスやアンドリュー・グラハム・ディクソンにやるのを見てみたいものです。自分の後ろにある橋を焼いてしまうような、相当に気合いの入った強情さですね。彼はこうして、自分の神殿から金貸しを放り出す効果的な方法を示したのです。”
アリード・ワークス・アーキテクチャが建設したシンプルなデザインのコンクリート製美術館で、スティルの作品は形式的にも文字通り独立している。10,000平方フィートのギャラリースペースでは、1920年から1979年のキャリアの時系列に沿ってスティル作品が交代で展示されている。
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