ゲルハルト・リヒター作品のキーワードは、Shine(シャイン・光・仮象)というよりSemblance(外観・見せかけ)である件について
英語の批評にはshineという単語が出てこない
日本語のゲルハルト・リヒター批評では、シャイン(仮象・光)という言葉が重要なキーワードとして用いられているが、英語のリヒター作品の批評をいくら読んでも、shine という言葉がどこにも登場しないことはずっと不思議だった。改めて調べてみると、どうやら元々のドイツ語であるScheinは多義的で、英語では基本的に Semblance (外観、見せかけ、上辺)と訳されているようだ。
リヒターの発言の意訳
リヒター本人のウェブサイトに掲載されているQuotesから、彼の文章の中で最も多く引用されている一節を、自分なりに意訳してみた。
“イリュージョン(錯視)──というよりも外見や外観、それが私の人生のテーマです。(大学の新入生歓迎スピーチのテーマにもなるでしょう。)私達に見えるもの、視認できるものはそれが全てです。なぜなら私たちは外観の反射光を知覚しており、他に視認できるものは存在しないからです。”
“絵画は、ただ外観だけを扱う、という他のアート(もちろん写真も含む)がやらない方法で、絵画それ自体について検討します。画家は物事の外観を見てそれを反復しますが、一切の偽りなく描いたとしても、画家はその外観を偽造しています。また、絵画がもはや何のオブジェクトも連想させないのだとしたら、その人工的に生み出された外観は、見慣れたオブジェクトの外観との類似性を吟味される、という機能だけを持つことになります。”
リヒター作品の本質とは
つまり、リヒターの根底には視覚に対する猜疑心があり、semblance(外観)という言葉を通じて以下の2つの前提を語っているのだ:
人はものごとの外観から正しい意味や内容を理解できるとは限らない
人はよく分からないものを見ると、何か似ているものを自分の記憶や想像から見つけて補完しようとする
リヒターのイメージに対する用心深さは、ナチス党員であった父親を持ち、若い頃に東ドイツのプロパガンダ壁画の制作に携わっていた経験から来る、“正しそうに見える間違ったもの” への嫌悪感が背景にあるのかもしれない。
実際にリヒターは様々なバリエーションの表現形式を用いているが、鑑賞者の視覚と認知を撹乱する、掴みどころのない外観 という点だけは全作品に共通している。
ぼやけ・ブレ・超情報量といった要素によって、視覚的にも意味的にも不安定なイメージを生み出しているのだ。以下にいくつかの例を挙げてみよう。
リヒターの作品例
フォト・ペインティング
リヒターのフォト・ペインティングは、キャンバスに投影した写真をなぞって油絵を描き、最後にドライブラシでぼかしを加え、その外観を台無しにすることで完成する。
筆でぼかすという行為は乾燥の遅い油絵だからこそできる描法であり、写真の特徴である描写の正確性も失われている。だが鑑賞者はピンボケを連想することで、そのイメージが写真(レディメイドのイメージ)の模写だと感じ取ることができる。
また、描写が曖昧だからこそ、イメージの背後にある文脈を理解したい、想像したいという感情が芽生えてくる点も重要だろう。
戦争やホロコーストに関するイメージを扱う場合ですら、リヒターは丁寧に説明したりはしない。むしろ極めて分かりにくいイメージを提示することで、鑑賞者が自ら歴史的事実と文脈を調べるように仕向けるのだ。
ミラー
ミラーのシリーズは、鏡面処理されたガラスの裏面に、顔料を固着させた作品である。鑑賞者はその反射する表面のせいで、作品の外観を観ているのか、作品に反射した自分を観ているのかわからない状態に陥る。
また、物質としての作品は変化しないとしても、その外観は展示場所、時間帯、観る角度などよって大きく変わってしまう。
もともとミニマルなカラーフィールド・ペインティングには、現実世界の再現をしないことで、作品の純粋な外観そのものを鑑賞させようとする意図があった。
またレディメイドは、日用品を日常の文脈から切り離し、純粋に視覚的なオブジェクトとして鑑賞させようとする。
だが一方で、リヒターのミラーの外観を純粋に鑑賞することは不可能だ── reflection(リフレクション)という言葉には内省という意味もある。
リヒターはその反射する画面によって、人はアートを鑑賞するとき、作品だけでなく自分自身も観ていること、周囲の影響を受けてしまうことを視覚的に教えてくれる。
グレーペインティング
グレーは何の意味も持たず、何も連想させない。何かを見えなくする性質を持つ色だ、とリヒターは語っている。
実際にグレーは他の色と並べても対比が生まれず、単にくすんで見せてしまう。また、グレーは光と影(白と黒)の中間色である。たとえ画面に激しい筆致の凹凸があったとしても、その陰影はどこから照明を当てても目立たない。
鏡面処理された表面に周辺空間が写り込んでいたとしても、画面がグレーなら全ては見えにくくなってしまう。
そしてはグレーには無限の階層があり、どこまでがグレーなのか文字通り“グレー”である。
リヒターは、あらゆる意味で捉えがたい外観を持つグレー・ペインティングによって、わかり易さを求める鑑賞者に挑戦しているのだ。
抽象画(スクイージー絵画)
絵具を厚塗りする抽象画には、その激しい筆致によって、作家の手さばきや感情を画面に直接記録したアクションペインティングが多い。
だがリヒター作品はスキージーで絵具をこすり付けているため、厚塗りだが作家の手さばきは読み取れない。色彩の混ざり合い・重なり合いも複雑で、どの様に描いているのか想像することすら難しい。
そもそも偶然性に任せて破壊と構築を繰り返しているため、リヒター自身も厳密なコントロールはできていないのだ。その画面はほとんどレディメイドのように出来上がる、と彼自身が語っている。
抽象画を観る鑑賞者が、現実に存在する何かとの類似点を探そうとしたり、画家の制作過程を想像しようとしても、この作品の複雑過ぎる外観は、あらゆる想像を受け付けない。
しかし、だからこそ鑑賞者はその画面をなんとか理解しようと、画面に長時間釘付けになってしまうのだ、とも言える。
ストライプ
ストライプのシリーズは、リヒターが自分のスクイージー絵画の中でもお気に入りの Abstract Painting, 724-4 (1990) のデジタル画像から色を抽出し、配置をランダムに入れ替えてストライプ状に引き伸ばした作品である。
線同士の色彩の対比によって、画面には遠近法に似た奥行き感が感じられるが、問題はその線があまりにも多く、かつあまりにも細いことだ。
色彩の対比が激しすぎて、観ていると目がチカチカするので、画面のどこかにピントと視点を固定しようと近づきたくなるのだが、どんなに近づいても色線はより細かい色線へと無限にほどけていってしまい、掴みどころがない。結果的に空間感覚が狂い、足元がぐらつくような感覚に陥ってしまう。
人間が認知できる範囲を超えた情報量によって、眼と脳が決して捉えることのできない外観の作品を生み出しているのだ。
まとめ
リヒターはあえて捉えがたいイメージを提示することで、Semblance(外観)に対する注意深い思考と観察を要求してくる──そう考えると、リヒター作品は理解しやすくなる。
そしてまた一方で、捉えがたい表現の文章が、読者をなんとなく納得させ、思考停止へと導くことも忘れてはならない(リヒターが嫌ったプロパガンダも、分かりやすいイメージと漠然としたスローガンのコンビネーションで出来ている。)
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