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【意訳】ゾンビフォーマリズムが遺した毒 第2章:「アートのシステム崩壊と文化への政治的火あぶり」
※英語の勉強のためにざっくりと翻訳された文章であり、誤訳や誤解が含まれている可能性が高い旨をご留意ください。
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The Toxic Legacy of Zombie Formalism, Part 2: How the Art System’s Entropy Is Raising the Political Stakes for Culture
Chris Wiley, July 30, 2018
Source:https://news.artnet.com/opinion/the-toxic-legacy-of-zombie-formalism-part-2-1318355
Source of the part 1:https://news.artnet.com/opinion/history-zombie-formalism-1318352
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私が借金の美学と呼んでいるものは、金融的な投資と経済的な分断が新しく生み出した、均一化された作品形式のことであり、これはゾンビフォーマリズムに限った話ではない。むしろ借金の美学は、ゾンビフォーマリズムを絶望的に時代遅れなものへと変えてしまうだろう。ブームと崩壊を繰り返す騒々しい流行のサイクルは既にゾンビフォーマリズムを置き去りにして、青々とした新たな牧草地へと向かっている。
コレクターたちは怯えた羊の群れのように、堕落した抽象画から逃げ出したのだ。予想通り、振り子のような具象画への回帰が始まっている。また、最近人気なのはいわゆるアウトサイダー・アート的なテイストを持った “誠実な”執着心を感じさせる作品で、1940年代後半にジーン・デュブッフェによって人気になったジャンルの系統に属する作品である。
だがそれでも、借金の美学を最も強く具現化しているのはゾンビフォーマリズムの作品と制作手法である。その作品は、より広義の借金の美学を定義する際に役立つ照合キーを提供してくれる。
ゾンビフォーマリズムは、ほぼ同じ作品を複数制作することから通貨のような特性を持っている。作品の内容の殆ど全ては借り物である ― 特に、歴史的な影響力を安定して持っている抽象表現主義やカラーフィールド・ペインティングを参照している。そのため購入者は安心感を得るのだ。また、すぐに理解し評価できることも売買時の余計な摩擦を減らすのに適している。
これらの作品は代替可能で、親しみ易く、素早く制作できる。以上のことから、ゾンビフォーマリズムはマーケットのためだけに生産された作品だと言えるだろう。
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例として、改めてルシアン・スミスの話をしよう。彼は2011年の初頭から“レインペインティングと”呼ばれる絵画のシリーズを制作し始めて一躍有名になった。下地処理されていないキャンバスめがけて、消火器に入れた絵具を噴射することで描かれたその絵画はほぼ瞬時にマーケットを魅了し、その凄まじい熱狂はスミスをアートの成層圏へと押し上げた。
その大量の作品は2012年から2013年の間に制作されたもので、“レイン・ペインティング”は3日に1枚のペースで生み出されていった。2014年にはオークションハウスのサザビーズ・ロンドンで、レイン・ペインティングのひとつ 「Two Sides of the Same Coin (2012)」 が、22.45万ユーロ(約37.16万ドル / 約4065万円)で落札された。
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だが去年(2017年)、同じ年に制作された“レイン・ペインティング”の 「Whether you come from heaven or hell, what does it matter, O beauty! (2012)」 は、NYフィリップスオークションで37,500ドルで落札された。前述の最高落札額から90%以上の値下がりであった。
ここでスミスが2011年に制作した作品のタイトルを引用しよう: What goes up, must come down(驕れる者は久しからず)。
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スミスのように無名の状態から短期間で一気に名声を得た者は他にもいるが、彼は他業種よりもイメージ戦略が重要なこのアート業界において、名声に執着するあまりに素直さを忘れていってしまった。
2014年、スミスはコロンビア大学のTEDx talkにおいて、急速な評価の高まりが自身に及ぼした影響を語った。その中で彼はドラッグ乱用、人間関係の破綻、自己愛中毒、そして自分の作品の今後に対する失望について語っている。
スミスは悲しげに、世を憂う口調でこう振り返った。“俺はアートの中で自分が好きなヤバいものをつなぎ合わせ、ひとつにまとめて、フランケンシュタインみたいなキャリアを作ろうとしたんだ。でもそれは俺には必要なものじゃなかった。それは単に俺がやらなきゃと思っていたこと、もしくは注目を集めて成功するために必要なことだったんだ。……でも、それは大間違いだった。”
彼はこう付け加えた。“俺は工場みたいな立場になった。自分のアイデアをかたちにするアシスタントさえいれば良いと思っていたんだ。自分で描くかどうかはどうでも良くなっていた。”
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スミスがクーパー・ユニオンを卒業する頃はまだ授業料は無料であったが、大多数の者はクーパーのような大学に入学する特権を持っていなかった。そのためスミスは、周囲がアートワールドのスターとして持ち上げようとしたり、投機的購入によって制作を急かされたりする状況の中でその制作スタイルを構築していったと言える。
また同時期に、クーパー・ユニオンは多くの抗議を受けながらも授業料無料という伝統を自ら捨て去った。また無料に戻すための闘争計画が現在も進行中だが、 この感情的な押し引き、経済的な公平性に関する議論の中心となっているのは、近い将来に作品制作がどう変わり、どんな意味を持つようになるのか?という論争である。
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だが、その議論に注目に値するものはない。作品制作スタイルに関する論点が、我々の多くがアートに対して持っている強い信念とかけ離れているからだ。我々は制作を支える発想力や、アートの社会全体における役割を重視しているはずだ。
もちろん、そのような挑戦的な信念は今は無きアバンギャルドのものである、という反論も出てくるだろう。それにアンディ・ウォーホルが“良いビジネスは魅力的なアートだ”という有名な宣言をしてから、すでに数十年が経っている。
それでもウォルター・ロビンソンは彼のゾンビフォーマリズムに関するオリジナルのテキストの中でこのように注記している。“妥協した、金目当ての、不誠実で、浅薄な、たわごとに過ぎないアートに対して、本格的で、純粋で、誠実で、奥深いアートも存在する。”
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彼の言うことは真実だろう。だが、投資と借金の力学がアートとアーティストに影響を与えている現在の状況を覆すことは難しい。ロビンソンはその論考において借金の影響は考慮していなかったと私に語ってくれた。“わたしは学生ローンについて何も知りませんでした。”
彼はメールでこう書いている。“わたしは美大に行かないことを自慢する世代の人間です。MFAは手に入れたいものリストの最後にありました。実際1972年組としては、大学を中退していない自分を少し恥ずかしく感じるのです。”
更に彼はこう付け加えた。“アーティストが自分からしょうもないキャリアを歩もうとするはずがない、と長年思っていましたが、その考えは完全に間違っているのかもしれません。時代がアーティストのあり方を変えているのです。アート・ワールドの合理化、道具化、専門職化の波は激しく、アーティストの個性を形作っていたロマンの要素はどこかに行ってしまいました。アートのアヴァンギャルドは今や文化的な抵抗勢力ではなく、れっきとしたプロの職業になってしまったのです。”
ロビンソンは全く新しい状況に対して幻滅しているのだが、それでもこの議論の隅には、昔から存在するイライラの要因が見え隠れする。そう、アート界のチンケなブギーマン達による“セルアウト”(売り渡し)である。太古の昔から権威者達に軽蔑されてきたこの行為だが、彼らはウォーホールの“ビジネスアーティスト” 発言のように、高潔さや高尚な意味を探求するロマンチックな取り組みをバカにしながら、現金の束を掴むためだけに、皮肉と挑発だらけの藪道を直進していく。
ではゾンビフォーマリズムもまた、単にありふれたセルアウトの一種だったのだろうか?
そもそもセルアウトと言われるのは、いわゆる裏切り行為である。流行に逆らっていたパンクバンドがメジャーレーベルと契約する。拡声器をもって叫んでいたアクティビストが会社を立ち上げる。実験的だった小説家がヴァンパイア系のヤングアダルト小説を書き始める。(日本で言えば異世界系のラノベを書き始める感じ)このような人々は妥協によって、自分のアイデンティティを支えるはずの信念を曲げてしまっているのだ。
以上のような例がセルアウトと呼ばれるのだが、一方でゾンビフォーマリズムやテンプレを繰り返すだけの画家達は、そもそも妥協以前に反抗的な思想を持っていた訳ではない。
彼らは投機的購入、短期利益、強欲に支えられたアートマーケットに自ら入門し、単純にその流れに乗ったのだ。彼らは“セルアウト”(売り渡し)をしたのではない。むしろ“バイ・イン”(了承)したのである。
借金の負担に悲鳴をあげている者以外にも、別の理由からバイ・インする者たちはいる。結局のところ借金の有無に係わらず、みんなお金が好きなのだ。それにルックスの良さや教養から醸し出される魅力に触れたジェット族は、パブロフの犬さながらに良くない作品にも条件反射で食いついてしまう。
※ジェット族:自家用ジェットで移動するレベルの大富豪達のこと。英語ではJet set(ジェットセット)。
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そもそも、抱えている借金と不安定な経済状況をなんとかしたいからこそアーティストはお金を生む機械の歯車の一部になろうと焦ってしまうのだが、その考えは余りにも甘い。積極的にトレンドに乗ろうとすることは、後先を考えぬ自殺行為である。
だが、“安全な”作品を作ろうというそのアイデアには、我々が必要だと教えられてきたもの ― 健康、住居、食をよりしっかりと確保できるようになりたい、生活がちょっとの事では崩壊しないだろうという実感を得たい、という、生活の基礎に対する欲求を感じる。
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思うに、我々はアートに活力、精神的な救済、知的な刺激を求めている。アートを実践し考える場所は何の役にも立たないとみなされることもあるが、 より非人間的になりつつあるこの世界では、そのような場所こそが人間性を守るための砦として機能している。
こういった要素によってこそ作品は注目を集め、唯一無二になり、価値を帯び、いわゆるアート的な性質を得ることができる。交換可能性や迅速さといった、金銭的な性質を作品に求める姿勢は変える必要がある。
借金の美学の現実を広く伝えることで、スミスの様にフランケンシュタイン的なキャリアの構築方法に依存する人々をきっと減らせるはずだ。
学生ローンの軽減は、明確な改善策のひとつだろう。だがアートにはマーケットから独立した新たな道が早急に必要だと私は考えている。また、収入のレベルや雇用形態に関わらず全ての市民の生活基盤を支える目的で設計されたユニバーサル・ベーシック・インカム(UBI)も、文化に関する重要な議論を生むだろう。
UBIのアイデアは経済や政治の分野において数世紀もの間放置され続けてきたもので、トマス・ペインからリチャード・ニクソンまで、様々なタイプの人々から支持されてきた歴史がある。(ニューヨーカーの専属記者ネイサン・ヘラーは、UBIが現代の文壇でちょっとしたブームになっていることを調査した記事を書いている。)
ここ数年、UBIは自動化技術の議論に関連して急速に再注目されている。その際に頻繁に引用されているオックスフォード大学のマイケル・オズボーンとカール・フレイの研究によると、次の20年で現在の職業の47%が市場から追い出されるというのだ。
そのシナリオからは浮かび上がる考えはひとつ。経済的に人権を奪われた人々が増大し、最終的に大規模な暴動を起こすことを予防するためには、まともな政府ならばUBIのアイデアを検討する必要が出てくる、ということだ。
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だがもう一つ、あまり皮肉的でない考え方も存在する。それはジャーナリストのポール・メイソンの著書 Post-Capitalism: A Guide to Our Future (2015) や、学者のニック・スルニチェクとアレックス・ウィリアムズの本 Inventing the Future: Postcapitalism and a World Without Work (2015) で紹介されていた考え方で、ロボットが我々の仕事を代わりにこなす様になれば、仕事をしなくてもいい、未来的で半ユートピア的な世界を創る余裕が生まれ、そこでUBIが重要な役割を果たす、というものだ。
ベーシックインカムへのよくある反論は、古い格言が元になっている。“悪魔は暇人に手を伸ばす。” (Idle hands are the devil’s playthings)UBIは仕事の妨げになり、社会のモラルと文化を劣化させると言われている。だが、文化に関する議論だけでなく、政治と経済に関する議論にも言えることだが ― もし正反対の視点から考慮するしたらどうなるだろう?もしこれを人間の堕落ではなく、人間を強制的な仕事や経済的な課題から開放し、更には人間の創造性をも解き放つものと考えたらどう映るだろう?
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切れ味鋭い彫刻や映像作品でUBIの必要性を精力的に訴えることで注目を集めているコンテンポラリーアーティスト:ジョシュ・クラインは、なぜUBIがアーティストと共鳴すると考えているのかをメールで説明してくれた。
“アメリカでは、裕福な家庭に生まれない限りコンテンポラリーアートを実践するのが難しい状況にあります。NYやLAといった、アメリカでキュレーターやギャラリストが最も展示を観ている土地の経済環境は、労働階級や中流に生まれたアーティスト達を除外するフィルターとなっています。ですが全てのアメリカ人、およびヨーロッパ北部の若手アーティストの多くは、そこを自分の欲望と好奇心を探求する場所と考えているのです。
我々がいうところの仕事は、農業の出現以降のたった1万年の間にだけ存在しているものです。それ以前、5万から10万年以上前に、人間は何をしていたのでしょうか?人類学でいうところの農業以前の狩猟民族は、元々は余暇の社会でした。ほとんどの狩猟民族は、1日に2時間程度しか仕事をしなかったのです。人間は、というか全ての動物が本質的には怠惰です。人間は機械ではないのです。”
夢みたいな話だが、クラインの牧歌的な予測によると、UBIはクリエイティヴな分野の想像力に火をつける。そして彼はUBIに対するより現実的な考え方を軽蔑している。とはいえ、彼の作品もまた大きな会社が所蔵しているのだが。
実際のところ、この指摘は過去にも多種多様な、尊敬を集める人々によって拡められてきた考え方だ。例えばジャーナリストのポール・ラファージのエッセイ “The Right to be Lazy” (1883) (怠惰の権利)、経済学者ジョン・メイナード・ケインズのエッセイ “The Economic Possibilities of Our Grandchildren” (1930)(我々の孫世代における経済の可能性)、哲学者のバートランド・ラッセルによるエッセイ“In Praise of Idleness” (1935)(暇であることを赦すということ)などがある。
中でもラッセルはそのエッセイの中で、明確とも思える主張を展開している。“全てにおいて人道的に良い状態であることは、世界が最も必要としていることです。そして、そのような良い状態は安心と安全の結果生み出されるものであり、辛い苦闘の人生によって得られるものではありません。”
借金の美学も拡大解釈すれば、我々に現代のアートワールドの状況と、その教訓を教えてくれるレッスンにも思えてくる。
無謀な自殺行為はイノベーションも良い作品も生み出さない。ただゾンビを生み出すのである。
Chris Wiley is an artist and art critic living in New York.