無表現主義:スクリーンとしてのキャラクター的肖像画
村上隆が現代アートの領域で探究しているアニメ・マンガ的キャラクター表現は、奇形化と言えるほどに過剰な誇張表現や、イメージに重層的な文脈を背負わせる手法に関するものである。
だがいつの間にか、若手具象画家たちの間ではじわじわと、キャラクター性を漂白したキャラクター絵画が存在感を増してきている。
彼らの無表現主義( Non-expressionism)とでも言うべき肖像画について考えたことを、いくつか言語化しておきたいと思う。
現在、この表現形式が一部の若手画家の間で共有されている:
・マンガ的な画風で描かれたミニマルな肖像画
・匿名性が高く、無表情で、特徴が薄く、文脈を持たない
・バストアップを正面から捉えた構図で、細部が省略されている
奈良美智作品の影響
まず、こういった形式を最初に肖像画へ導入したのは奈良美智の絵画ではないか、と個人的には考えている。彼は上記のような特徴を持った絵画を、すでに何年も描き続けているからだ。
そのうちのひとつが Midnight Truth(2017)である。彼のドローイングには怒りや衝動が表現された躍動感のある作品も多いが、それとは対照的にこの形式の絵画は極めて落ち着いた雰囲気を帯びている。
おそらく少女であると思われるその人物がまっすぐにこちらを見つめているが、その離れ気味の目からは、感情を読み取れそうで読み取れない。不安に怯えている様にも、怒りと軽蔑をこちらに向けている様にも見える。
むしろ、鑑賞者である我々の心を覗いているのかもしれないが。
若い世代の具象画家たちは、このタイプの奈良美智作品に少なからぬ影響を受けているのではないだろうか。
キャラクター表現としての側面
こういったタイプの絵画を、キャラクター表現の手法からも読み解いてみたい。
一般的なキャラクター造形は、ステレオタイプ(典型的)な要素を盛り付けて個性を強調していく塑像的な行為であるが、これらの絵画ではむしろ余分な要素を全て削ぎ落とし、キャラクター表現のプロトタイプ(原型)を削り出すようなアプローチとなっている。
しかし、そういった表現が全く新しい、という訳ではない。古くはティディベアからミッフィー、ハローキティ、リラックマまで、ミニマルなキャラクターデザインには長い歴史がある。
ミニマルなキャラクター達
こういったミニマルなデザインは多くの場合、動物をモチーフとしたキャラクターに使われてきた。シンプルかつ無表情で、口がない場合もある。最小限の要素へかわいさを結晶化したようなデザインである。
無駄が極限まで削ぎ落とされてはいるが、冷淡で不気味な印象を与えるケースはほとんどなく、むしろ安心感や親近感を与える性質を持っている。
なぜならそのキャラクターには、見ている者が投影する想像や期待を、全て受け容れられるだけの余白があるからだ。
悲しいときも、楽しいときも、彼らは我々の全てを受け止め、静かに寄り添ってくれるだろう。
マーク・ロスコ、アグネス・マーティン、アド・ラインハートなどの柔らかな印象を持つカラーフィールド・ペインティングもまた、これと同じような性質を持っている。
その作品が色彩以外の情報をほとんど何も伝えてこないからこそ、鑑賞者は画面を観ながら何かを連想・想像し、内省的な思考へと導かれていくのだ。
このことから、ミニマルな視覚的表現は何も表現していないのではなく、ニュートラルな余白を提示している、と考えることができる。
プロジェクターは、何もない空間には映像を投影できない。真っ白なスクリーンがあって初めて、その反射光を映像として鑑賞することができる。
それと同じく我々にも、絵画やぬいぐるみというスクリーンに投影することでしか向き合えない心の内側があるのかも知れない。
KYNEのミニマルな美人画
奈良作品との直接的な類似性、連続性を感じられる画家は多いが、
ここでは全く異なるテイストでありながら、前述のような無表現的肖像画の特徴を持った絵画を制作するアーティストを取り上げたい。それがKYNE(キネ)である。
彼の描く女性は基本的に無表情で、最小限の描線とモノクロームな色調で描かれており、極度に抽象化されている。
ファッションブランドの広告を連想させる理想化された美人であるが、その背後にある文脈、感情、人間性は漂白されている。
この作品も、鑑賞者に投影を要求する。我々はここに描かれている人物を魅力的な日本人女性だと感じ、親近感と既視感を覚えるはずだ。
だがおそらくKYNEの絵画は、スペイン人にはスペイン人女性に、中国人には中国人女性に見えることだろう。鑑賞者はそのニュートラルな女性像に、自分達の肌の色や文化を投影するのである。
逆に言えば、白人文化圏における女性の美しさの基準が広告などを通して世界中に影響を与え、我々の美人という概念を画一化しているのかも知れないが。
KYNEが江口寿史と大きく異なるのはこの抽象化の部分である。江口作品は、どちらかと言えばファッション・スナップ的なのだ。江口は特定の街の空気感やモデルとなった女性の雰囲気をキャプチャし、それをイラストとして描写する能力に優れている。
海外における具象画の傾向
このように日本では、鑑賞者の投影を受け止める性質を持ったスクリーン的な具象画が増えているが、海外ではむしろ、今まで大衆から無視され、見逃されてきた人々の日常を描写する、有色人種やクィアのアーティストによる具象画が注目を集めている。
つまり、他の世界を覗き込むための『窓』としての具象画である。あるいは、別の文脈で世界を捉え直すための『フィルター』かもしれない。
サルマン・トゥール(Salman Toor)、ジョイ・ラビンジョ(Joy Labinjo)、すでに亡くなってしまったノア・デイヴィス(Noah Davis)、かなり年上だが劉小東(リウ・シャオドン)もこの文脈に入ってくるだろう。
日常を描くという主題はありふれたもので、現代アートの領域で扱うには無難すぎると感じるかも知れないが、マイノリティや異邦人コミュニティにとっては、それを大衆に可視化し、伝統的な絵画という形式に乗せて価値付けする行為は『新しいこと』であり、相互理解や地位向上を進めていく上で重要な文化活動なのだ。
これもあくまで局所的なもので、世界的な大きな動向とまでは言えないが、日本の具象画における傾向とは真逆であるため、比較すると興味深いのではないだろうか。
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