前衛の死と転生:懐古主義的なアートの方法論

アートにおける“現代”という概念の変化

20世紀のコンテンポラリー・アートは、現状に対する不満と危機感を原動力に表現形式を開拓していくジャンルだったと言える。未知なる表現への好奇心、旧時代的な価値観の否定、コミュニティの啓蒙と鼓舞、社会問題の可視化などが、視覚芸術のフォーマット上で実践されてきた。これらの作品制作は経済活動であると同時に研究開発や社会運動にも近く、先進的な価値観や理想が表現されてきた。つまり、ここでいう現代:コンテンポラリーとは、少し先の未来のことであった。

スティーブ・ジョブズの有名な言葉がある: 

顧客が求めているものを与えなさい、という人がいるが、私のやり方は違う。我々の仕事は、彼らが欲しがるものを彼らより先に理解することだ。たしかヘンリー・フォードはこう言っていた。「顧客になにが欲しいか聞ていたなら、こう言われただろう。『もっと早い馬を!』と。」人々は自分が何が欲しいのか、それを見せられるまで分からないものだ。だから私は市場調査に頼ったことはない。我々の使命とは、まだページに書かれていないものを読むことだ。”

ジョブズは起業家だが極めてアーティスト的な感覚を持っていた──というよりも、全く新しい表現形式を切り拓き、アートの本場をヨーロッパからアメリカに変える大転換を起こした20世紀のアーティスト達が、アメリカの起業家達の価値観にも強い影響を与えていたと言ってもいいのではないだろうか。
だが時代は巡り、今ではアートの方がビジネスの影響を強く受ける様になった。その結果、アーティストは近世以前の様に顧客の求めるもの:“もっと早い馬”を提供する仕事へと回帰しつつある。そしてどうやら我々にとっての現代:コンテンポラリーとは、少し前の過去を意味するようになりつつあるようだ。

前衛のゾンビ

象徴的な出来事が、2000年代中期から2010年代中期頃までの“ゾンビ・フォーマリズム”の流行である。1950年代から1960年代にかけて活躍した元々のフォーマリスト(形式主義者)たちは、伝統的絵画とは全く異なる構造と理論に基づいた抽象画を発明していった。当時の彼らの作品は極めて先進的・超越的で、誰もが簡単に良し悪しを判断できるものではなかった。
だが2000年代ともなると抽象画の価値は社会的に広く認知されて権威化し、よく売れる伝統的絵画のひとつに生まれ変わっていた。言い換えるなら、フォーマリズム絵画はコンテンポラリー・アートとしては死んでしまっていた。

しかし00年代の若手画家の多くは、そういった人気の抽象画とそっくりな作品を、消化器、電気メッキ、スプレー、シルクスクリーンなどのより効率的で乱雑な技法を用いて量産していく。それが過去の名作が墓場から蘇ってきたように見えたことから、彼らの絵画は“ゾンビ”と揶揄されるようになったのだ。

だがこの現象の背景には、プロのアーティストを目指す人々が表現の探求よりも切迫した問題:経済的困窮に直面するリスクが高まっている現状があるとされている。最高水準の教育を受け博士号を取得した学生が、卒業後に知識を活かす場がなく経済的に困窮してしまう高学歴ワーキングプアが近年問題になっているが、これと同様の事態がアーティストにも起きるのだ。
また、年々の学費上昇に加え、学生本人が奨学金の支払い義務を負うケースが増えている。美大生は稼ぐのが極めて難しい業界に参入する一方で、卒業後は自力で働き、ある程度のお金を稼げるようにならなくては奨学金を返済し続けられない、という経済的パラドックスを入学時点で負ってしまうのである。
ただでさえ費用と時間の掛かる作品制作に取り組むアーティストにとって、この負担は決して軽くない。ここへ育児や介護など家庭内の仕事が重なれば更に大変だ。
こういった事情から、充分な経済的・文化的サポートを受けられる恵まれた環境にいない限り、プロを目指すアーティストの多くは作家活動で早く食えるようにならなければ、という焦りを抱えてしまう。結果としてその作風は、売りやすく評価されやすい、権威ある名作のリバイバルやリミックスになってしまいがちなのだ。

懐古主義が最新の潮流である

今までのコンテンポラリー・アーティストにとっての最終到達点は、作品が美術史に残ることだった。それは様々な領域の作家に時代を超えて影響を与え続ける、表現形式の規範として認定されたことを意味するからだ。
だが、アーティストも鑑賞者も、もはや文化を先導し切り拓く役割をアートに望んでいないのだとしたら?前衛としてのアートは死んだと潔く割り切り、経済的成功を最大の目的とした、全く新しいアートのあり方について本気で考えてみるべきなのかも知れない。

結論から言えば、アーティストが主体的に何かを表現・発明・問題提起して文化を先導し、未来に影響を与えようとする時代は既に終わったように見える。
21世紀のアーティストはむしろ、何かを引用・再現・調査して過去の文化を再評価し、現代の我々に何が影響を与えてきたのか振り返ることで共感と関心を集めようとする傾向が強い。つまり、前衛主義とも古典主義とも違う、懐古主義芸術と言うべき性質を持つようになってきている。
結果としてアーティストは、いつの間にか廃れていたものを懐かしいモチーフとして取り上げ、美術史上の名作や過去の文化を現代的要素とマッシュアップし、作品に知識・教養・文脈を詰めこむようになった。
ここではいくつかの作品を例に挙げ、従来のコンテンポラリー・アートとの違いを見ていきたい。

有名作品の引用

従来型のコンテンポラリーアートが有名作品を引用する場合には、それを通して今まで気づかれなかった、表現されてこなかった物事を可視化しようとしていることが多い。

画像1


例えばサルマン・トーアのTea,2020の構図には、カラヴァッジョの聖マタイの召命の構図が引用されている。元作品ではマタイがキリストと出会って使命に目覚める瞬間が、光と影の強烈なコントラストによって劇的に表現されている。しかしトーアの絵画は、それと真逆の性質を持っている。
家族のお茶の席ですら疎外され、独り立ち尽くすトーアの顔には孤独と絶望が浮かび、今にも空気の中に消えてしまいそうである。パキスタンの保守的な家庭でクィアとして生きる個人の物語は、多くの人にとって縁遠く、共感しにくい。だからこそ有名な宗教画を引用しつつ、その類似点と差異を提示してみせることで、マイノリティの人生にも受難がつきものであること、しかもそれは劇的でも英雄的でもなく陰鬱な受難である、という事実を世間に伝えようとしているのだ(カラヴァッジョがゲイであったとされるのも、彼の作品を引用した理由のひとつだと思われる。)

画像2

一方で21世紀型のアートは、よく知られている懐かしの大衆文化を作品に引用し、クスッと笑えるパロディにしようとする。
KAWSのThe KAWS Album, 2005は、ビートルズのサージェント・ペパーズのアルバムジャケットをシンプソンズのキャラクターに置き換えて再現し、自分のトレードマークである目のバツを加えている。「これはシンプソンズのあのキャラだけど、アルバムジャケットでは誰だっけ?」と内容を読み解いて楽しめる賑やかな良い絵だが、この組み合わせに深い意味は無い。この表現が大衆に受け入れられやすいのは当然といえるだろう、なぜならみんなが知っている大衆文化を引用し、アート化した上で、それを大衆に再提示しているのだから。

従来の表現技法に対する姿勢

従来のコンテンポラリーアートにおける制作テーマは、古い価値観や既存の表現に疑問を投げかけ、問題を指摘し、その代わりとなる新しい技法や概念を提示しようとするものが多い。

画像3


例えばクリストファー・ウールの抽象画、Untitled, 2009 は、従来の抽象画の概念をあざ笑っている。アクション・ペインティングと呼ばれる抽象画は、絵具を厚塗りすることで画家の身体的な動作の痕跡を強烈に残すことを重視した。その画面は偶然によって生まれるもので、同じ絵は二度と描けない、とされていた。
だがウールは薄塗りのエナメル塗料をスプレーで吹いたり拭き取ったりを繰り返すだけで、いとも簡単にアクション・ペインティング的な画面を生み出している。更にはその二度と描けないはずの偶然性をシルクスクリーンで使い回し、組み合わせることで、また別の新たな抽象画を生み出してしまう。従来の抽象画の定義を何重にも違反しているのに、それでも良い絵が描けてしまう。この事実によって、ウールは新しい絵画の形式を開拓しているのである。

画像4

一方で21世紀型のアートは、伝統的な価値観や表現を肯定的に引用して、自分の作品に文脈と価値を付加しようとする。例えばダミアン・ハーストのRenewal Blossom, 2018は、テイスト的には印象派、点描主義を思わせ、その筆致はアクション・ペインティング的で、描かれている桜は日本の伝統的なモチーフである。彼自身の初期のスポット・ペインティング、Spot Painting, 1986なども彷彿とさせる。ハーストのこのシリーズでは、何か新しい提案や挑戦が行われている訳ではない。美術史と個人史を振り返り、それらを組み合わせることで制作されている。だがシンプルに見応えがあり、様々な文脈から影響元について語ることができるので、鑑賞者にとっては理解しやすく、親しみやすい作品だと言えるだろう。

政治的問題の扱い方

従来のコンテンポラリー・アートは、あえて作品を難解にすることで鑑賞者に熟考と洞察を促し、繊細で複雑な政治的問題を冷静な視点で捉えさせようとする傾向がある。

画像5

例えばデヴィッド・ハモンズのHair Relaxer, 2001では、欧米の富裕層を象徴する家具:シェーズ・ロング(別名レカミエ)の隙間に、散髪屋で収集した黒人の頭髪が挟まっている。シェーズ・ロングはリラックスして寝そべるためのソファである。つまり、白人の富裕層が休息を取っているとき、黒人は尻に敷かれて圧迫され、休む暇などない、と表現されているのだ。
この作品は、白人による植民地政策、奴隷制度による黒人への抑圧と支配の影響が現代まで続いていることを極めて分かりやすく視覚化しているのだが、アートや人種問題に関する知識と興味がない人には無意味なオブジェクトに映るだろう。じっくり考える準備ができていない人、理解しようとしない人を不用意に刺激せず、わかってくれる人だけにしっかりと伝わる、静かな告発をおこなっているのである。

画像6

一方で21世紀型のアートは、誰もが知っているニュースや美術史を引用して作品をシリアスなものに見せようとする傾向がある。
例えばダナ・シュッツの Trump Descending an Escalator, 2017は、大統領選に勝利したトランプが黄金のエスカレーターに乗って降りてくる様子を捉えた報道写真をモチーフとしている。
そのタイトルから、デュシャンの階段を降りる裸体No.2を引用していることも分かる。だが、その2つの関連性は薄い、あるいは非常に不明瞭である。
イタリアのファシズムと未来派の関係性を、トランプの国粋主義と強引に結びつけて語ることはできなくもないが、そう解釈したところで新たな発見やメッセージ性が浮かび上がってくる訳でもない。政治的なイメージを扱う一方で政治的主張は避けており、実際には沈黙しているのである。過激な印象と意味ありげな雰囲気だけが重要ならば、ニュースや歴史を単なる作品の材料として扱うこの方法論が、とても効果的だと言えるだろう。

だがこの方法論は、作品のイメージが観賞者に与える印象について慎重に考慮することを省いているため、炎上と批判に晒される可能性が高い。それでも「そんな意図はなかったが、そう受け取られたのなら謝ります」と、観賞者の誤解や読解力の低さが原因だったかのように論点をすり替え、言い逃れしやすいのが、この曖昧な表現手法の最大の利点なのかもしれない。
ダナ・シュッツは、炎上後も人気画家として活躍している。

自分で自分を搾取しないために

繰り返しになるが、21世紀型のアートは作家に影響を与えることよりも、顧客から評価を受けることを重視する。見たことのないアイデアを生み出すことよりも、既視感のあるアイデアをいかに組み合わせるかを重視する。つまりは、権威ある人や大衆が何に価値と親近感を感じるのかを敏感に察知して応えていくことになる。
ただ、アート作品はそれで良いかもしれないが、それを制作するアーティスト本人はどうだろう。キャリア形成において、自分が着実に積み上げてきた実力や知恵よりも、制御不能で流動的な他者の評価が重要に思えるとき、精神的に安定していられるだろうか。

本来、制作を通して自分のやりたい表現を探求していくことは、それ自体がひとつの自己実現である。他人にどう思われようと、収入がなかろうと、自分の好奇心と創作意欲を満たしてくれる作品制作は楽しいものだ。制作の度に報われ、救われた気分になれているのならば、困難に直面しても折れずに活動を継続できるだろう。

だが他人の評価ばかりを重視して、自分を抑圧しながら制作を続けているとしたら?その我慢は何らかの評価を得るまで報われない。将来の自分の成功のために、現在の自分が搾取されている状態が続いてしまう。
しかし、その過程で恥をかき、敗北し、挫折したらどうなるか。今までの努力が全て無駄になり、存在まで否定された気分になってしまうだろう。
それが怖いからこそ、アーティストは偉い人からの無茶な要求を受け入れたり、焦燥感に駆られて破滅的に努力したり、不安から逃れようと誰かを盲信して無批判に従ってしまう、といった状況に陥りやすい。
過去の努力と将来のキャリアを人質に取られた状態で、精神的、社会的に自由であり続けるのは簡単ではないのだ。

過剰適応自己愛性パーソナリティ障害に関連した精神衛生上の問題と、やりがい搾取やプレカリアートなどの労働問題が絡み合った、アーティストを取り巻くこういった状況には、改めて注意が必要だろう。特定の個人(批評家、コレクター、有名作家)からの評価、あるいは不特定多数からの“いいね”がもの凄く重要に思え、彼らの機嫌を損ねたら自分が破滅すると感じているとき、すでにアーティストとしての生殺与奪の権は他者に握られているのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?