密かなおまじない
「おまじない」はこっそりとするもの。
そう思いながら人知れず家族にし続けてきた「おまじない」も、いつしか習慣となり、気付けば28年もの月日が経とうとしている。
もしも私に何かあったら、そのまま誰にも知られることなく自然消滅……それでもいいと思っていたけれど、いつか家族がnoteの存在を知ったとき、「あれってこういう意味だったんだ」と思ってくれたらちょっと嬉しいので、記しておこうと思う。
*
私はいつも家族を送り出す時、「いってらっしゃい」の後に、2度頷いている。
文字にしてみるとなんだかおかしく感じるけれど、さほど大袈裟なものでもなく、上手く調和も取れているので違和感はない。
年季が入った今ではさりげなさに磨きが掛かっているのでとても自然な習慣となっている。
きっかけは、幼い頃に近所のお宅でたまたま見た『切り火』、火打ち石でカチカチするアレだ。
火花に目を丸くする私に、おばちゃんと母が「これは『おまじない』なのよ」と、にこにこしながら教えてくれた。
その頃はまだピンときていなかったので、ままごとで真似をするくらいだったけれど、数年後に見た事故のニュースで、「ただいま」が当たり前ではないことを思い知り、あらためて『切り火』の深い意味を知ったのだ。
一緒に見ていた母は隣で「『いってきます』と言ってそのままなんて……」と泣いていた。
日航ジャンボ機墜落事故(日本航空123便墜落事故)である。
*
事件や事故、自然災害。一歩出れば、いや、一歩も出なくても、いつ何があるかわからない世の中だ。
無事でいるのはたまたま。運が良かっただけのこと。それは百も承知で今朝も「いってらっしゃい。(うん、うん)」と見送った。
若い頃は「ただいま」のためだと思い込んでいたこの『おまじない』も、いつしか私の「おかえりなさい」のためでもあると思うように。
私だっていつどうなるかわからない。
少し前、お隣のご主人が亡くなった。朝、息をしていなかったそうだ。
「『おやすみなさい』って言ってそのままだったのよ」と奥様。深い悲しみとは別に、ご主人の苦しみが少なかったことに対する安堵の言葉を口にされていた。
*
遠い昔に見たあの忘れられない光景……時として別れは突然にやってくる。
家族を持ち、幸せを感じる一方で、失う恐怖に心が揺れた日のことを思い出す。私は少しでも安心感を得たかったのだと思う。
「切り火」とは随分と形が違うけれど、手軽だからこそ長く続けてくることができた私なりの「おまじない」。
ほんの1秒ほどのこの小さな儀式は、家族の無事を祈ると同時に、私自身の小さな覚悟でもある。
命は尊くて、そして儚い。歳を重ねるごとに、この些細な行動の重みと意味を深く感じるようになった。