数学者の言葉はいかにして大作曲家の名言と取り違えられたかーーまたはN.チャイコフスキーと数学【追記あり】
もしも数学が美しくなかったら、おそらく数学そのものも生まれてこなかったであろう。人類の最大の天才たちをこの難解な学問に惹きつけるのに、美の他にどんな力が有り得えようか。――ピョートル・チャイコフスキー(1840-1893) 永野裕之『とてつもない数学』
この言葉は2020年に出版された『とてつもない数学』のエピグラフ(巻頭の題句)として、ピョートル・チャイコフスキーの言葉であると引用されている。
しかし、これが作曲家チャイコフスキーの言葉でないとしたら…巻頭を飾る言葉としてどうだろうか。
もしも数学に美がなかったなら,おそらく数学そのものも生まれなかったことだろう.人類の最大の天才たちをこの難解な学問に引き付けるのに,美のほかにどんな力があり得えようか.チャイコフスキー『数学名言集』P.161
チャイコフスキー,N(1887-1970)ソ連の数学者 『数学名言集』P.306
ヴィルチェンコ編『数学名言集』大竹出版
この言葉は1989年に日本語版が出版されたロシア人ヴィルチェンコ編『数学名言集』より引用した。
こちらでもチャイコフスキーの言とされているのは変わらないが、巻末索引では但し書きとして、チャイコフスキー,N(1887-1970)ソ連の数学者と明記されている。繰り返すが、巻末にだ。
この記載の仕方は甚だ不親切である。例えばロレンスという著名なイギリス人の発言と聞いた時、文学者D.H.ロレンスであるか、あるいは軍人T.E.ロレンスであるか、確認をとらないことにはわからないだろう。
しかしチャイコフスキーという姓では、誰しもがN.チャイコフスキーという数学者の発言だと思わず、P.I.チャイコフスキーの言葉であるだろうと曲解するだろう。ネット上に流れるチャイコフスキーの発言とされるこの名言はこの記述が元でうまれた流言飛語であろうと思われる。これは生むべくして生じた誤解であると言わざるをえない。
実際、この数学名言集を引用した書籍、桜井進著『面白くて眠れなくなる数学』では注釈もなくそのままに引用されている。
もしも数学に美がなかったなら、おそらく数学そのものも生まれなかったことだろう。人類の最大の天才たちをこの難解な学問に引き付けるのに、美のほかにどんな力があり得えようか。チャイコフスキー
引用元の注釈を明示しないことで、より「この言葉は大作曲家P.I.チャイコフスキーのものである」と思い込みがより強固になったのではないだろうか。
ことばとは何をいうかよりも誰がいうかが重要視されるとはよく聞くが、大作曲家が数学を賛美する名言と、日本では無名に近い数学者が数学を賛美する言葉ではやはり違ってくるのではないだろうか。
ただし、このN.チャイコフスキーとされる数学者が何者であるか、一応調べたけれどもノイズが多すぎて特定するには至らなかった。
このN.チャイコフスキーが何者であるか、はたまた「いや、これはやはり大作曲家チャイコフスキーの発言である」と証明するに足る情報をお持ちであればこちらまで是非教えてほしい。この美しい言葉を正しき発言者に返すことに、私はやぶさかではない。
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追記(2020/11/27)
このnoteを投稿した後、twitterにて匿名の識者からお返事をいただいた。
ひとまず生没年が一致する数学者のニコライ・チャイコフスキーさんを見つけました。http://archivsf.narod.ru/1887/nikolay_chaykovskiy/index.htm
ざっくり見た感じでは西欧東欧系の作家さんをまとめたサイトのようで、数学者兼作家として紹介されているようです。
インターネットの海にメッセージボトルを流したところFedExで返事がきたような心境であります。情報提供いただいた方に、この場を借りて御礼申し上げます。