読書ノート 「世界はゴ冗談」 筒井康隆
久しぶりに新刊で筒井康隆を買う。もう買うものがない証拠だ。コロナ禍なのに忙しく、じっくり本を読むことができにくくなるなか、なんとか興味を持続して読めるもの、それが筒井康隆である。衝撃の傑作十編。短編集。
「不在」…五つの章立て。約三万文字の中編。
「1」では、男性がいなくなった世界で、東北大震災を想起させる大災害後のやり取りを描く。「わたし」と「工藤さん」はどちらも女性であるということに読者は徐々に気づく。
「2」では、災害時に転倒して意識を失った夫の看病をする妻の視点が語られる。夢の中で「この世界」に帰りたがっている夫を助けようと奮闘するが、夫は夢の中で射精するなど異なる生活をしていることが示唆される。物語が進行するたびに時間は流れ、20年の月日が経っても妻は身悶えながら夫の帰りを待つ。
「3」では、場面が変わり、数少ない男性たちの生活が描かれる。大枚を前に女性から言い寄られ、希少性の中で恵まれて生きる様子をさらりと描く。女性警官に励ましの声をかけると、警官たちは「はあい。頑張りまあす」と、すこし間の抜けた口調で返事するのが俊逸。
「4」では、被災地マラソンの途中で不在になる選手について書かれる。孤独で思いつめた「浜口亮子」が、「孤独だったから」失踪した、というオチで終わる。
「5」では、「2」の続きが描かれる。
32年経って、寝たきりであった夫が目覚める。夫は意識を失っていた時に生きていた、別の世界に囚われており、何を聞いても無反応。夫は「よく覚えていない」といいながら時折遠くを見る目をするので、必ずその別の世界のことを覚えていると妻は確信する。ある夜、夫は寝言で「みずえ」と呟く。ホテルの内覧会に夫を連れ出し、そのホテルのエレベーター内に一緒に乗り合わせた女性に夫は「みずえ」と呼びかける。「みずえ。ぼくだ。ここで何をしているんだ。ああ。逢いたかったよ。逢えてよかった」「あんなに長い間一緒に暮らしてのに。ぼくたちはいつまでも、何年も何十年も若いままだった。行動を共にした冒険を覚えているかい。あれから親しくなったぼくと君とは、離れられなくなってしまって」しかし当の女性は知らぬ存ぜぬを通す。ところが知らないと主張する女性は涙を流し始める。それを見て妻は愕然とする。妻は絶望する。「あの人なのね。あの人だったのね」そして夫は忽然と姿を消す。その後夫は戻ってこなかった。「さらに10年が経過した。老婆となったその頃になってやっと真由美には、夫にとっての真由美のいるこの世界が、ほんのかりそめの世界でしかなかったことを理解することができたのだった」
筒井康隆が震災からイメージしてこの短編を書いたのは間違いがない。死別した人々への鎮魂曲として、固有のファントムを創出している。『不在』と名付けられたのは、配偶者の不在、働き手の不在、男性の不在、現実世界そのものの不在、という意味であろう。在るものがなくなった時に、はじめてそのものの大切さを実感する、といったのは河合隼雄であっただろうか。
「メタパラの七・五人」…発表当初話題になった短編。
作者本人が作中で「メタフィクションからパラフィクションへの移行を小説仕立てにしたものに他ならない」と宣言してしまっている。ちなみに文庫解説はその出典である佐々木敦。最後の完璧なセンテンスで、読者は作品の一部になる。
佐々木が言うには、もっとも短いメタフィクションは、
私は今、この文章を書いている
であり、最も短いパラフィクションは、
あなたは今、この文章を読んでいる
となるそうだ。
メタとはつまり「作者=書くこと」の自意識のこと。ならばパラとは「読者=読むこと」への意識となるわけだが、問題はもちろん、実際にはそれを「作者」が「書くこと」によって醸成しなければならないということ。勉強になります。